京のいけず日記

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2005年10月23日(日) 『写生の時間』と、その界隈




岡崎 京都市美術館の立て看板


小雨降る日曜日、予定通り、姉と行きたかった美術展へやっと行ってきました。ほんとは人が少ない平日に行きたかったんだけど、仕事などで、再三、流れていたん。行きたいって思ったの、8月の終わりだったもん。それが、今(笑)

行きそびれなくて良かった。メジャーな展覧会じゃないことと、会期が長いこと、雨のせいもあって、人も少なく、ゆっくり、思う存分、見て回れたし。

すごく感動しました。竹内栖鳳の写生帖、伊藤草白の茄子と唐がらし、後藤貞之介のコオロギ…、何枚もの下絵…、たくさんの絵、が、生意気いうようなんだけど、描いてはる人の視線、息遣いが伝わってくるようで…。

元治元年とか明治生まれの人の絵が多かったのかな。動乱の時代、明治維新、文明開化、絵画にも変革の波があったんでしょうか。新選組にどっぷりだけど、同じ時代に絵に生きていた人達、いろんな人達が生きていたんだね。

ふと思うんだけど…、昔はカメラもなかったから、絵の役目って、正確に写し取るって役割があったと思うの。画家のイメージも今とはちょっと違ったものかもしれない。でも、写生って、ただ同じように形が写し取るだけのものじゃなくて、そこに描く人の心が表れているんだよね。きっと。

今は写真家じゃなくてもカメラが身近になった。プロじゃなくても、形を写し取ったり、感動した時に、写真が手軽に撮れる。絵はそういう役目を写真に譲って、何ていうのかなぁ。良いと悪いとかじゃなくて「遊び」になった。ものを真摯に見ずに、心を描く。心だから形はない。自由だ。芸術を気取る。だけど中途半端に気取った心なら、見ているものに何も伝わらない。

西瓜にしても、草花にしても、虫にしても、景色も、人も、それを愛でる気持ちがあるからこそ。意のままに形を捻じ曲げて、暴君のように芸術を気取る絵。才気走った絵。感覚だけで描かれた乱暴な絵。そんな絵は嫌いだ。

…あの、…抽象画とか、そういう意味じゃないです。うまく書けないんですが。

作家の丁寧な、繊細な視線を通して、ものの気持ちが伝わってくる…、
そんな昔堅気の絵を見るのが好きです。

ほんま、なんも知らないのに、すごい生意気…、えろう、すんまへん。


帰り道。美術館のある岡崎ってところから、知恩院さんの前を通り、祇園さんの社へ抜ける道、久々に歩きました。途中の倉庫を改造したという、お洒落なカフェで食事。このあたり観光コースなんで、人は相変わらず多いですね。写生している人も多かったです。

祇園さんの石段から、東大路(向かいは祇園会所のあったコンビニ)に降りたけれど、ここからさらに下れば、御陵衛士の高台寺(月真院)や、清水寺、清水さんの裏手、山道から、さらに五条通りを渡れば渋谷、勤皇派にゆかりのあった妙法院や、泉涌寺へ、足に自信があれば歩いていけます。

さらに下れば、十条河原や、伏見へも…。東福寺から稲荷山を抜けて、伏見稲荷神社へ、たくさんの狐の狛犬、有名な鳥居の参道なんか、いいですよねー。

逆に美術館のある岡崎から、紅葉のきれいな永観堂や、南禅寺も近く、
上(かみ)に少し上がれば、黒谷さんがあります。
南北、東山トレッキングルートになっちゃいますね(笑)脚力いります。


あぁ。どっか行きたいなぁ!! 会津行きは延期になっちゃたし。
多摩…歳三さんじゃなくて、実は、多摩動物園に行ってみたかったりする。
昔。放し飼いの孔雀が木の上にいるのを、そこで初めて見たもんですから…。

みなさまも、秋の観光シーズン、どうぞ京都へおこしやす♪


Sako