……推して知るべし。
こんばんは。いきなりですが、レポート(土曜のやつ)一本玉砕しました。 授業の終わり際に滑り込んで提出しようとしたら予想より遥かに早く授業終わってたみたいでした。行ってみたら誰もいなかったよ! まあ、授業開始時間間違えて(しかも丸々一授業分間違えてた)悠長に書いてた私がいけないのですが。悔しいので下に掲載してやるっ。まあ、同じく悔しいので暫く教員棟を徘徊して先生探して、とりあえずの無念は供養したわけですが(見つからなかった。棟が違ったのかも)。 しかし漢詩のとこどう訳そうかと悩んだ時間とか、王翊について検索してた時間とかが超もったいない。いや、それ以上に出発前に風呂入ってた時間が超もったいないが。流石にその……二日風呂入らないでそのまま出かける度胸はなかったよ……。
ああ因みにですね、金曜の授業も色々あって(具体的にはうっかり徹夜したので妙な時間に仮眠を取ったら授業終了直後の時間にやっとこさ起きたので)出られませんでした。しょうがないのでマイク付きヘッドホンを買ってきて、さっき録音したところです。1300円くらいだけど意外と綺麗に録音できてて嬉しいです。でもこれ終わったら用途が全然ないよね(爆)。 土曜はその後で文化祭の担当者会議に出てきました。つくづく自分向いてないよなぁと思うのは、この会議大抵6時限目の時間だってことなのよね。普通に授業ある期間だったら空いてるのは金曜土曜日曜だけですよ私……。幹事長のが忙しい(週一日とかしか空いてない)から仕方ないんだけどさ。何で担当者も副担当者もうちはこの時間塞がってるやつばっかりなのか。……でもまあ二文学生のサークルとかよりは楽か。
今日はですね……いい加減睡眠時間が滅茶苦茶なので(しかも変な時間にちょっとしか寝てないので/生理中は変な時間に眠いから(課題とかで)普通の時間に寝てる余裕がなかったり、(調子的に)寝られなかったりする。昼夜逆転しやすいことこの上ない)、ともかく次のレポートは締め切りがそこそこ遠いから(20・21日まで)、がっつり寝てやろうと思ったら起きたら暗かったんです(爆)。20時てあんた。寝た時間が遅めだったのを差し引いても寝すぎですよ。 なので今日は録音だけ。明日は発音記号の書き出し。
……IPAのフォントダウンロードしたのはいいんだけど、入力はどうするんだろう。全部「記号と特殊文字」から入れるのかな?正直ちょっと謎なのでその辺調べてみてから風呂入って寝ようと思います。またこんな時間かよ……(5時)。
↓↓↓↓↓漢文のレポート掲載↓↓↓↓↓
<レポート内容> (書き下し文) 舜水難を冒して輾轉落魄すること十数年、其の來て此の国に居る。初め窮困支えること能はず。柳河の安東省菴之に師事し、祿の一半を贈る。久しくして水戸の義公、之を聘して賓師と為し、寵待甚だ厚く歳々饒裕を致す。然るに儉節自ら費やす所無し。人或いは其の嗇を詬笑するに至るなり。遂に三千餘金を儲く。終りに臨み盡く(ことごとく)之を水戸の庫内に納むる。嘗て謂いて曰く、中國黄金に乏す。若し此れを彼に用ひば、一を以て百に當らんと。新井白石謂ふ、舜水の縮節餘財を積む、苟しくもして然るに非ず。其の意葢し(けだし)義兵を挙ぐるを以て恢復を圖るの用に充てるに在るなり。然るに時至らずして終わる、憫れむ(あわれむ)べきかなと。 彼に在りて経略直浙兵部左侍郎王翊と、志を同じふし偕に恢復を謀る。而して王翊清兵と戦ひ敗れて死す。實に八月十五日なり。数年の後舜水此れを聞きて於邑し文を作りて之を祭る。是従り(これより)毎歳中秋必ず門を杜し(とざし)客を謝し、抑鬱无聊す。田犀に答ふる書に曰く、中秋は知友王侍郎完節の日なり。惨柴市に逾(こ)へ、烈文山に倍す。僕其の時に至り備に(つぶさに)傷感を懐く(いだく)。終身遂に此の令節を廃す。 舜水郷國の居宅及び先塋皆王文成と相近し。野節に与ふる書に云ふ、但だ念ず先父母の墳墓城市に近きを。恐らくは虜人の残毀に遭はん。先祖及び高曽の墳城を去ること一里なる能はず。蔭木脩抜通邑に無き所なり。高曽の墳、陽明先生の塋と比隣す。其の樹木の美、概して荒瓏に及ぶ能はず。虜人大木を求めて船を造る。此れ必ず残壊に遭ふ者なりと。又佐野回翁に答ふる書に云ふ、王文成僕が里の人なり、然燈相照(※)らし鳴鶏相聞こゆと。(※ 原文では火偏に召の字) 舜水二男一女有り。長は大成字は集之、次は大咸字は咸一、共に節に殉じて清に事(つか)へず。而して舜水に先んじて卒す。大成亦た二男を挙ぐ。曰く毓仁、曰く毓徳。延寶六年舜水を慕ひて長崎に來る。義公今井弘濟をして往きて消息を通ぜしむ。然るに終に舜水と相見ゆるを得ず歸る(かえる)。 舜水詩を作るを好まず。奥村庸礼(※旧字体)に与ふる書に曰く、詩を吟じ賦を作るは學に非ざるなり。而るに日を棄て時を廃するは必ず不可なる者なり。空梁燕泥を落とす、工は則ち工なり、曽て(かつて)何ぞ治理に益あらん。僧は推す月下の門、覈は則ち覈なり。曽て何ぞ民事に補ひあらん。鶏聲茅店の月、人跡板橋の霜、新は則ち新なり。曽て何ぞ事機に當らん。しかも且つ髭を撚り心を嘔く。儻し或いは工緻なる能はざれば、徒に人の指摘に供するに足る。又何ぞ詩名に益あらんと。是を以て其の集中一首を録せず。然れども猶ほ李杜を評して曰く、李は杜に如かず。李秀でて杜は老なり。李は奇險にして杜は平淡なり。李は仙と成る等の語を用ゆ。更に煉丹を経ず、等は殊に雅ならず。杜の家常茶飯味有るに如かざるなり。然れども奇奥の極ならずんば、平淡を造り得ず。平淡を学ぶに意有れば、便水平煎豆腐湯のみと。 或る人舜水の詩を誦す、九州瓦の如く解け、忠信苟しくも生を偸む、蒙塵の際に詔を受く、跡を晦して(くらまして)東瀛に到る、回天の謀未だ就らず、長星夜夜明らかなり、單身孤島に寄す、節を抱きて田横に比す、已に聞く鼎命の變、西を望み獨り聲を呑む。又安澹泊が湖亭渉筆、朱文恭が遺事に安南の旅寓に在りて賦するところの詩一首を挙げ、以て滄海の遺珠と為す。其の詩に云ふ、劇を治めて從容策銜を緩うす、鈴軒無事にして日に清談す、隼よ(※「旗」の右下の其が與になった文字)畫戟千里明らかに、紙帳縄牀自ずから一菴、金奏屡々(しばしば)陳し客の和を容し、玉山動かず賓の酣なるを看る、我來て邂逅新政に逢う、忘却す漂流して身南にあるを。 舜水文集二十八巻義公世子と共に編輯する所なり。毎巻名を署し冠するに門人の二字を以てす。安東省菴稱して、公侯の尊、師を尊ぶこと此の如く、真に百世の美事と為す。誠に然り。 湖亭渉筆に曰く、文恭酷だ(はなはだ)櫻花を愛し、庭に數十株を植え、花の開く毎に之を賞し、覺等に謂いて曰く、中國をして之を有らしめば、當に百花に冠たるべし。廼ち(すなはち)知る、或る者認めて海棠と為すは、櫻花の厄と謂うべしと。義公櫻樹を祠堂の旁側に環植するは、遺愛を存するなり。 舜水帰化して年所を歴(へ)、倭語を能くす。然るに其の病革(すみやか)なるに及び、遂に郷語に復するなり。則ち侍人了解する能はず。 大高芝山鵜真昌に与ふる書、舜水と陳元贇とを並駁す。且つ獨立の言を挙げて曰く、元贇・之瑜は面知に非ず。然れども曲(つぶさ)に其の實を傳聞するを得たり。贇は是れ市井の販夫なり、瑜は是れ南京の漆工なり。彼の儔(ともがら)、奚ぞ(なんぞ)學を為すに暇あらん。又奚ぞ詞章を作らんやと。安澹泊の邑篁溪、泉竹軒に与ふる書に之を辨じて曰く、舜水、元贇並び稱するは、不倫の甚だしきと謂うべし。況んや又口を極めて譏詆するをや。何者の幺麼(ようま)敢えて此の如き鬼恠を作(な)すや。此の輩唇吻を簸弄(ひろう)す。原と(もと)計校するに足らず。然るに先君をして之を見しめば、必ず一元當に(まさに)處置すべき有らん。惜しいかな其の及ばざるや。今試みに一事を以て之を辨ぜん。引く所の獨立の言は、誣に非ざれば則ち妄なり。獨立、先生と相知る、日久し。何ぞ面知に非ずと言ふを得ん。其の安南供役紀事に跋せる真蹟見在す。先生の特操を稱すること、一にして足らず。言奮ひ氣爭ひ、錚錚たる鐡石、今古上下、其の事無く其の人無し。凛凛たる大節、今古第一義幟と稱すべしと云ふに至りては、此の語何ぞ前言と相戻れるや。獨立、披剃易行の徒なりと雖も、而も其の反復、未だ必ずしも此の如く已甚だしからず。故に曰く、誣に非ざれば則ち妄なりと。 室師礼(※旧字体)曰く、朱之瑜云ふ、東坡少き時、父老泉常に枕中より書を出して之を讀む。而して深く秘し、人に之を見しめず。嘗て老泉出て在らざる時、東坡密か(※旧字体)に之を覘へば、則孟子なりきと。此の事諸書に載する所無し。葢し彼の邦相傳の言なりと。
(口語訳) 舜水は困難なことをして落ちぶれ様々な場所をさまようこと十数年、その後にこの国にやってきてここにいついた。初めのうちは財政的に困窮して生活を支えることが出来なかった。筑後国柳川藩の安東省菴之が舜水に師事して、給金の半分を贈っていた。そうした生活が長く続いた後、水戸藩の義公(徳川光圀)が舜水を招聘して客分として扱われる人とし、その待遇は大変手厚く、年々余裕ができてきた。しかし舜水は倹約に努め、自ら金を使うことが無かった。人がその吝嗇ぶりをののしって笑うことさえあった。そうして遂に三千余金を蓄えた。臨終に臨んで、舜水はその財産をすべて水戸藩の倉庫に納めた。かつて舜水が言うには、「中国には黄金が乏しい。もしこれ(黄金)を私に与えてくれるならば、一の黄金で百の黄金にも匹敵する働きをしよう」と。新井白石は言った、「舜水が節約をして余財を貯めているというが、万が一にもそんなことは無いのである。その思うところは恐らく、故国に義勇の兵を挙げ、国家(明)の恢復をはかるという目的のために当てるつもりだったのだろう。だがその時に到らないうちに舜水は死んでしまった、憐れむべきことである」と。 舜水は経略直浙兵部左侍郎であった王翊と(明の復興という)志を同じくしていて、共に明の回復を計画していた。だが王翊は清の兵と戦い、敗れて死んだ。実に八月十五日のことであった。その数年後に舜水はこれを聞いて憂い塞ぎ込んで、文章を作って王翊を祭った。これ以降、毎年の中秋に必ず門を閉ざし、客を断って、塞ぎ込み安らがなかった。田犀(田中一角)に与える書で言うには、「中秋は良く知った友人王侍郎が節義を全うした日である。悲惨なることは柴市(で国に殉じた文天祥の業)を超え、烈しいことは文山(文天祥)に倍する。私はその時になると細々と感傷を抱くのである」と。命を終えるまでの間遂に、この良い季節の行事などを廃していた。 舜水の故郷の国の居宅や先代の墓は皆王文成(王陽明)のものとお互いに近い。野節(人見竹洞)に与える書で舜水が言うには、「先父母の墳墓が城市に近いことをただ案じている。恐らくは清の蛮人に破壊されるであろう。四代・五代前までの先祖たちの古墳も城市から一里も離れていない。墓地を覆う樹木の長大であることは邑中で随一である。四代・五代前の古い先祖の墳墓は、陽明先生(王陽明)の墓と隣り合っている。その樹木の美しさでは、概して陽明先生の墓の樹は我が家の墓地の樹の美しいことには及ばない。清の蛮人たちは大木を求めて船を造るから、これは必ず彼らの破壊に遭うだろう」と。また佐野回翁に答える書で舜水は言う、「王文成(王陽明)は私と同郷の人であって、灯火はお互いに照らしあい、鶏の鳴く声がお互いに聞こえるほどである」と。 舜水には二男一女があった。長男は大成と言って字は集之、次男は大咸と言って字は咸一、どちらも節義に殉じて清には仕えなかった。しかし舜水より先に死んだ。大成はまた二人の息子をもうけた。毓仁と毓徳という。延寶六年、舜水を慕ひて長崎にやってきた。水戸の義公(徳川光圀)は今井弘濟を行かせて朱舜水の消息を伝えた。そこで、遂に舜水と相見えることが出来ないままに帰った。 舜水は詩を作ることを好まなかった。奥村庸礼に与える書で言うには、「詩を吟じ賦(韻を踏んだ詩文)を作ることは学問ではない。だからそれに一日を費やしたり、時間をかけるのは絶対にいけない。『空梁燕泥を落とす』というが、工(たくみ)は確かに工であるが、どうして理を治めることに利益があるだろう。『僧は推す月下の門』というが、精緻で緻密というなら確かにそうではあるが、どうして民草に関することに補いがあるだろう。『鶏聲茅店の月、人跡板橋の霜』というが、新しいことは確かに新しいが、どうして時宜に適することがあるだろう。しかもなおかつ、髭を捻るように苦心して詩句を考え、心のうちを吐露するのである。もしも或いは巧緻であることができないならば、無駄に人の批判を受けるだけになって、自分の詩人としての名声には利するところがない。こういう理由でその(舜水の)集の中には一首も収めていない。だがやはり李白や杜甫を評して言うには、「李白は杜甫に及ばない。李白は秀でていて杜甫は老練している。李白は奇怪であり杜甫は素直である。李白は「仙と成る」などの言葉を用いる。「更に煉丹を経ず」などは特に美しくない。杜甫のいつもの普通のことは味わいがあるに越したことはない。だが奇抜にして奥妙の極みに達していなければ、この素直さ平淡さは出せない。平淡を学ぶことに意義があるならば、それは水平煎・豆腐湯くらいのものである」と。 或る人が舜水の詩を朗読した、「九州瓦の如く解け、忠信苟しくも生を偸む、蒙塵の際に詔を受く、跡を晦して(くらまして)東瀛に到る、回天の謀未だ就らず、長星夜夜明らかなり、單身孤島に寄す、節を抱きて田横に比す、已に聞く鼎命の變、西を望み獨り聲を呑む(中国全土は瓦解し、忠信の心はありながらかりそめに生きながらえる。明の帝が難を避けて逃れ出たときに詔を受け、後をくらまして東海(日本)に到る。既に落ちつつある明という太陽を天に引き戻す謀略は未だ成らず、長星は夜毎に明るい。単身を離れ小島(日本)に寄せ、節義を抱いて田横に並ぶ。国家覆滅の事変を聞いて、西の方角を望んで一人声を呑むのである)」と。また安澹泊の湖亭渉筆は、朱文恭の遺事に安南の旅寓にあって作った詩一首を挙げて、それでもって大海原に残された珠(珍しい拾い物)とした。その詩に言う、「劇を治めて從容策銜を緩うし、鈴軒無事にして日に清談す、隼よ(※「旗」の右下の其が與になった文字)畫戟千里明らかに、紙帳縄牀自ずから一菴、金奏屡々(しばしば)陳し客の和を容し、玉山動かず賓の酣なるを看る、我來て邂逅新政に逢う、忘却す漂流して身南にあるを(繁劇なる土地を寛大なる政治で持って治め、風鈴を吊るした軒の下で日々高尚なる話をする。安南の旗と矛は遠方までその威容が行き渡り、私自身の居所は草庵に似て、音楽を奏することはしばしば客の和をかたちづくり、酒を飲んではその酔ったことを見る、私はやってきて正月と出会う、漂流して南の地にあることを忘れる)」と。 舜水文集二十八巻は、義公(徳川光圀)がその世継ぎと共に編集したものである。巻ごとに名前を記し、その名前には門人の二文字を冠した。安東省菴は称して、「公侯の尊いことはかくのごとく、本当に世に滅多にはない美事である」とした。本当にそうである。 湖亭渉筆に言うには、文恭(朱舜水)はとても桜の花を愛し、庭に数十株を植え、花の開くたびにこれを鑑賞し、覺(安積澹泊)たちに言った、「中国にこれを存在させたなら、まさに百花に冠たるものとなるだろう。だから、或る者が桜の花を支那の海棠と見做すことは、桜の花にとっての災難であると言うべきだ」と。義公が桜の樹を祠の傍に巡らして植えたのは、生前舜水が愛したものを植えたのである。 舜水は帰化して年も経ち、様々な場所を経て日本語を良くできるようになったが、その病が悪化すると遂に本来の故郷の言葉に戻ってしまった。そのため、傍に仕える人々はその言葉が了解できなかった。 大高芝山が鵜真昌に与える書で、舜水と陳元贇とを並べて論じている。なおかつ獨立(帰化僧の名)の言葉を挙げて言うには、「元贇と之瑜(舜水)は顔見知りではなかった。しかしそのお互いの実情をつぶさに聞くことができたのである。元贇は市井の町人であって、舜水は南京の漆工であった。彼の同胞はどうして学を為す時間があったであろう、いや無い。またどうして詞章を作ったであろうか、いや作らない」と。安澹泊が邑篁溪、泉竹軒に与ふる書でこれを弁じて言うには、「舜水と元贇を並べて称するのはつりあわないこと甚だしいというべきである。ましてや口を極めてそしるなどとんでもない。一体どんなつまらぬ小人がこのような奇怪なことをしたのであろうか。この輩はみだりに唇を動かしているだけだから論じるにも値しない。だが先君にこれを見せたなら、必ずや根本的に処置するべきところがあるだろう。それが及ばないことが悔しい。今試みに一つのことをもってこれを弁じてみよう。引いてくる獨立の言葉は『誣に非ざれば則ち妄なり』である。獨立は先生とお互いに知人であることが長かった。どうして顔見知りでなかったということができるだろう、いやできない。彼が安南供役紀事にあとがきを書いた真蹟を見て取ることができる。先生の特操を称することは一であって足りない。言葉は奮い立ち、気性は凛凛として鉄石が鳴るかのごとく、世の古今上下において、舜水の如き行為も人物もなく、潔き節義は古今の第一等のものであると言うのに到っては、この言葉はどうして前の言葉と相戻ることができようか、いやできない。獨立は剃髪して念仏を唱え行を行う僧であるけれども、しかしこの反復は、ここまで甚だしくはない。故に言う、『誣に非ざれば則ち妄なり(事実をまげてこじつけるのでないならばつまり妄言である)』と」と。 室師礼(室鳩巣)が言うには、「朱之瑜(舜水)は言った、東坡の若い時、父親の老泉がいつでも枕の中から書を出してこれを読んでいた。だがしかしこれを深く秘め、人にこれを見せることはなかった。かつて老泉が出かけて不在のとき、東坡が密かにこれを見てみると、孟子であった」と。このことは様々な書物にも載っていない。思うに彼の国(中国)に相伝の言説であろうと。
</レポート内容>
……私の書き下しと訳なので内容は保障しません(原念斎『先哲叢談』の二巻の中盤ぐらいです)。 来年、先生の邪魔になる可能性があるので後で消去するかもしれません。覚えてたらね。
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