昨日は結社の句会で参加者は8名ほどだった。 庭の葡萄の花を少し切って持っていった。 葡萄の花は咲いてる期間が短くてうっかりすると咲いてる時期を通り過ぎてしまう。 花びらのない地味な花だけど独特の匂いがする。 私は石鹸のような匂いだと思うしそのことを俳句に詠んだこともあるけど 葡萄の花を知ってる人が少ないので、葡萄の花のことは伝わりにくい。 先生に、葡萄の花を見せたけど 「これは季語ですか?」と 「一応、季語ですが大きな季語ではないみたいです。」と答えたけど 先生はそれ以上興味を示さなくて、隣の席の人だけが少し興味を持ってくれた。 その時に小学生の時のきゅうりの事を思い出した。 あの時と同じだ。
小学生の頃、近所の農家に野菜を買いに行った時に取り忘れてヘチマのようの巨大化したきゅうりをもらった。 今までそんなに大きなきゅうりを見た事がなかったので、この驚きを伝えたくて次の日に学校に持って行って先生や友達に見せようと思った。 どのタイミングできゅうりを先生に見せたら良いかわからなくて、結局放課後になってしまった。 もう、ほとんどの生徒が帰ってしまった後で先生に 「こんなに大きなきゅうりがありました。」とドキドキしながら見せたら 先生は 「あら大きなきゅうりね。」くらいの薄いリアクションでガッカリした。 しかも男子に 「学校にきゅうりなんか持ってきちゃいけなんだぜ。」とからかわれて 大きなきゅうりに出会った感動を誰ともシェアできなかったという苦い思い出がある。
俳人は季節の植物に興味を持ってるということではないんだなと思った。 この先生はこういうリアクションだろうなというのもなんとなくわかってたのかも。 自分の中で確認するために、私は葡萄の花を持って行ったのかも。 3年は今の結社にいようと決めたから、あと2年はこの場所にいるけどずっといる場所ではないだろうな。 文学しての俳句よりも私は季語の四季を感じる中で産まれる感情や言葉を詠んで生きたいと思う。 先人の句を書き留める事も大事だろうけど、机の上で詠むものではないと思う。 賞が欲しいと追いかけるよりも旬のものを栽培して料理して食べて季節を感じる幸福感が俳句につながるで私はいい。
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