以下は、わたしがわたし自身を癒すために書いた長い回想録です。
わたしの行動が直接結果を招いたとは言えないし、がんばれば彼を救えたかもしれないと思えるほど、単純なことではなかったのはわかっています。それでもやはり、わたしはこう感じずにはいられないのです。
彼は高校時代の同級生でした。
わたしたちが通っていたのは本当の意味で自由な学校。遅刻もさぼりもしたい放題。掃除も強制されることがない。お隣りのクラスはいつまでたっても誰もごみを捨てに行かないので、ごみ箱の側の席の子が匂いに堪えかねて、ごみ箱を廊下に出したくらい(苦笑)、教室では土足で、床にタオルを落としたら最後、そのタオルは洗う気にもなれないくらい、文化祭で校長先生が「みなさ〜ん、掃除をしましょ〜う」と歌うくらい(笑)。長期休業中に宿題を課すのは「伝統により」禁止されていたくらい、だれにもなにも強制されないそんな学校でした。
そんななかで彼は1度も遅刻することなく、もちろん名前を呼ばれる瞬間に教室に駆け込むなんてこともなく、さぼることもなく、日々の宿題や予習もきちんとしていて、だれがどう見ても、どこからどう見てもいい人でした。
逆に、世の中には悪意のある人もいるのだということを知らなそうに見えて、少し不安を誘うくらい。頼まれれば、なんでもしてくれそうな雰囲気があったし、女の子と話すときにもへんに意識したりしないし、人を外見で判断するようなところはかけらも見られない人でした。
彼のお母さんが亡くなったのは、たしか高校2年のときでした。
しばらく学校に来なくなりましたが、だれもなにもいいませんでした。みんな心配はしていたのです。でも、母を亡くすという体験は、想像して思いやることはできても、そうそう共有できるものではありません。彼が持つ幾億もの思い出の1つとして知りはしないのです。母子関係は1人1人まったく違うもの。わからない痛みをわかったふりをする人は、あまりいないクラスでした。
しばらく出てこなかったからといって、内申書のような部分で問題になるような学校ではなかったし、それにいままでクラスでただ1人といっていいくらい真面目な学校生活を送ってきていたのです。これを機会に少しくらいお休みするのはいいことだろうと先生ですら思っていたようなところがありました。
ある日、ひさしぶりに出てきた彼は、以前とはまったく違う厳しい、蒼白な顔をしていました。まるで何日か屋外で寝泊まりしてきた人のような空気を身にまとっていました。
目が、なにかを怖がっているかのように定まらなくて。
しばらくしてクラス中の空気が変わりはじめました。彼は満足の行く答えを返してくれそうな人のところへ、つぎつぎに話しを持ちかけたので、当然割合しっかりした子たちが相手になり、そして彼らのほうが動揺しはじめたのです。
彼は学校に来なかったあいだに、新興宗教や生き方セミナー系の本にはまっていたのでした。わたしはその手の本は中学のときに一通り読んでしまってもう卒業してしまっていました。
一通り読んだというのはすべて読んだという意味ではなくて、読んでいると身体的に吐き気がしてくる本は読む必要のない本として避けるようになったり、複数の本を読むうちに、1冊の本に書いてあることでも、この部分は正しいけれども、こっちの部分は間違っているというように、自分の感覚に照らして読むようになったので、書いてあることを真に受けなくなったということです。そしてあるときから、結局、世界のすべてを知ることよりも、日々の生活をいやな気持ちを抱いたり抱かれたりしないでやっていくことのほうがずっと難しくて意義があると思うようになっていたのです。
彼とはなしをしたいという思いは持ちつつ、そのようなことをようやっと知りはじめたばかりで動揺している人と話すことには抵抗があり、またいたずらにへんな刺激を与えたら取り返しのつかないことになるという恐れもあって、自分から彼に近づくことはしませんでした。
ところがある日、ほかの子から、彼がわたしと話をしたがっていると聞かされました。その後、休み時間に「ソ連に行ったことがあるんでしょう?」とそれだけ彼本人から確認され、「話しが聞きたい」と言われました。
わたしは13のときにはじめてバレエを習いに2週間ほど、ソ連に行って、その後はほとんど毎年のように行っていました。
1人、ちょっとおせっかいぎみの子が彼のことを心配してか、「わたしもついていく」と言いだし、はなしを聞いたほかの子も「俺も」と言いだし、結局放課後、6人でケーキ屋さんの2階でお茶をしました。
彼はわたしから、ノストラダムス本などで知ったソ連についての知識を確認したかったようです。彼の質問には答えたのだけれど、わたしは常に1歩退いていた記憶があります。彼がほんとうはなにを求めているのか、わたしが答えるのではなく、彼の話をもっと深く聞く必要があると、わかっているのに、それが恐くてできない。
当時のわたしはバレエのことだけで頭がいっぱいでした。プロになりたいと思ったし、がんばればなれるかもしれないとも思っていた。それが高校受験で半年休んだことで台なしになってまったく踊れなくなってしまった。ちょうど、体形が大きく変わるころに休んだのが悲劇でした。わたしの高校3年間は、どうにかして休むまえと同じように踊れるようになろうというあがきだけで終ってしまったようなものでした。
もっとあとになって、大学に行かないなら、バレエのお金は出さないと母に言われた時点で、また大学受験のために休むとなると、「踊り続けることは許されたけれど、自分の夢がかなうことは永遠になくなった」とわかったのですが。。。
わたしに話しがしたいと言ってくれた彼と、深い話しをできるのはクラスのなかでわたしだけかもしれないと、こころのどこかで思っていました。彼以上に「その手のこと」について読んで、もう卒業したのはどうやらわたしだけのようだったからです。
でも、彼とはなしをしはじめたら、かなり長い期間、長い時間、真剣に彼とつきあわなければならなくなるのはわかっていました。はじめたら最後、途中で投げ出すわけにはいかない。
とにかく毎日、一日中踊っていたかった、病気になって手や脚を失うことになって踊れなくなったら、死んだほうがましだと本当に真剣にそう思っていたわたしにとっては、高校3年間のうちにどうしても以前のバレエの腕に戻したかった。そんなときに精神的に非常に不安定になっている彼に関わっているのは恐かったのです。
何時間かほとんど彼とわたしだけが話しを続けました。けれどそれ以降、彼はもう2度とわたしに話をしたいとは言ってきませんでした。しばらく学校に出てきていたかと思うと、また休むような日々を繰り返して、そのあいだ、彼の目はますます不安定になっていくようでした。
1人のこころの温かい男の子が、彼が学校に出てきはじめてから、結局浪人することを決めて卒業したあとも、ずっとつきあってあげていました。彼自身はもちろん、在学中から精神科にも通い、なんらかの病名を伝えられていました。わたしの目には病気というよりもこころの壊れてしまった人と映っていました。
その後、大学時代もずっと人づてに彼の消息を聞き、友人達の誰かが彼とあったり、連絡をとったりすると、わたしに教えてくれていました。6人でのお茶に、彼よりもどちらかというとわたしのことを心配してついてきた友人が、1度、まだ彼のことを気にかけていたのか?と驚いていました。わたしのほうから積極的に彼のために動いたことは1度もなかったのですから、そう思われるのも無理はありません。
そしていつまで経っても「だいぶ落ち着いてきた」と言われるところを見ると、つまりよくなってはいないのだと感じられました。
おととい、その驚いていた友人からメールが来ました。同窓会名簿が届いたとのこと、そして逝去した人のなかに彼の名前が入っていたことを知らされました。
彼はきっとわたしのことを友人だとは思っていなかったでしょう。わたしがあのとき、もっと強くて、もっとうまく話しをできたらとずっと思い続けていたことを、知るよしもないでしょう。でも、わたしは自分の弱さを放っておくとどういうことが起こり得るのか、それをずっと教え続けてくれた人として、彼のことを友人として記憶に留めると思います。いつまでも。
P.S. いまのあなたの眠りは安らかでありますように。
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