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2009年01月05日(月) 君は大陸の覇者となれ


隣の駅に住んでる伯父の事務所に、母と挨拶しに行った。
おじさんは72歳。末期の膵臓がんだ。

おじさんは近くにすんでるわりに、異母兄妹だし年が離れているから母とは元々あまり親しくなかったり、家族を顧みない仕事魔でずっと海外に行きっぱなしだったり、長男が音信不通で次男がひきこもりだったりで家にも行きにくく、あまり交流はなかった。おじさん自身も怒りっぽく、皮肉屋で、人の話を聞かないため、あまり近づきたい人物ではなかった。ロシア語が堪能で貿易の仕事をしてるのに、ロシア好きの私がちっとも近寄れなかったくらいだ。
そのため母から挨拶に行こうと言われたときも私は
「あー…仕事もしないでぶらぶらして!とか怒られんだろうな…イヤだな…」
と悶々としていた。

事務所はマンションの一室。壁がおしゃれなピンクにぬられていて、黄色いソファ、エメラルドグリーンのテーブルクロス、あちこちにロシアや中央アジアの民芸品がきれいに飾られていた。スリッパはモコモコのフェルト製、ビーズがちりばめられたお姫様みたいなデザイン。
当然私はカワイイカワイイと大興奮。「このセンスを誰も理解しないんだ、ピンクの壁なんて気が狂ったのかと妻にもさんざん言われた」とおじさんは苦笑。おじさんは家族と離れたいがために、仕事があってもなくても一日中この事務所にいるのだ。

ひさしぶりに見るおじさんは、ずいぶん痩せていた。
そして落ち着きなく胃のあたりを押さえていた。
痛みがひどくて眠ることも食べることもままならず、年末に病院に行ったところ、ついに「もう医者としてできることはない、持ってあと2ヶ月」と言われたそうだ。

もはや健康については暗い話になる一方なので、仕事についていろいろと聞いた。それまでおじさんのことは「貿易の仕事をしてる」「定年後は何かゴソゴソしてる」ということしか知らなかったので、聞いて正直驚いた。

おじさんはずっと大手の商社に勤めていたけど、定年退職後は、仕事で知った旧ソ連某国の地方都市の農業を改善するために、私財を投じて現地法人を設立していたらしい。上質の種芋を買い付けて、農民に安価で分けて、農業の知識を与え、収穫物を輸出できる環境を整えて、まともな取引ができるように社員を育て…。すべて自腹。
驚いた母が、そんなお金の使い方をしていいの、と聞くと
「商社ではずっとインチキな仕事で金をもらってきたんだ、こういうふうに使って当然だ」
と、あっさり。

ソ連時代にコルホーズ(集団農場)で流れ作業に準じてた農民が主なため、農業の全体的な流れを知ってる農民がいない。小麦は撒いて終わり。雑草も取らない。ノウハウを知っている農民はその知恵を他には漏らさず、自分だけ得をしようと画策する。政府は汚職まみれ。何をするにもまず賄賂。海外からの寄付金は無能な外国人コンサルタントの給料に消える。
死ぬ前にせめて、自分無しでも取引が続けられるようにしておかなきゃならない。あと冷凍トラックと、新しいジャガイモの種を買わなきゃいけない。600万くらいはかかるが仕方ない。

それから、これまで現地に行ったときは事務所に寝泊まりしていたけど、やっと家を持つことにした、今アパートを改装させている、と言っていた。玄関から台所までの壁は薄いブルー。リビングは優しいピンク。ベッドルームは明るいイエロー。照明は気に入るのがなかったから、中国人に注文して作らせている。奴らに頼むとどうも安っぽくなるけど、手先は器用だから。

でも医者によると、おじさんの体はもう、飛行機の気圧には耐えられないらしい。しかも標高1800メートルで、空港から車で6時間もかかる町?死にますよ。

私についても聞かれたのでフラフラしたあと求職中だということを話したら、怒られるかと思ったが、怒られなかった。「今の女の子はすごいよなぁ、立派だよ。目が違う」と言っただけだった。そして「何かほしいものはあるか?俺が死んだら何でも持ってっていい、このラクダの人形も、本も、好きなのは全部持ってっていい」と言った。

帰り際にはフェルトのスリッパをくれて、「久しぶりに素直に話せた、痛みも今日はずいぶんいい。よかったらまた来てくれ」と言われた。家族には、現地のアパートのことも、冷凍トラックのことも、何も話せないそうだ。


あああ、私、何にも知らなかったんじゃん。何にも知らないくせに怖い人だの怒られたくないだのなんだのって、馬鹿みたい。あと2ヶ月って何だよ。もう行けない町のアパートを買って、まだ改装中ってなんだそれ。住むため?そりゃもちろん住むためだろう。アパートの使用法なんて住むしかない。でも住むのは本人なのか夢なのか。とにかくそのアパートは希望だな。でもおじさんは行くつもりなんだろうな、本当に行けるかどうかはともかく、また行くつもりなんだろうな。妻と息子たちもついていったらいいのに。和解したらいいのに。長い軋轢があったとしても、おしゃれな壁紙、立派な仕事、最後の夢に理解を示したらいいのに。
いずれは終わることだとしても、バッドエンドでないハッピーエンドにできたらいいのに。


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