同じ空の下で。
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僕は、以前、「夢」という言葉を使うことが あまり好きではありませんでした。 「夢」というと、それは「見るもの」であって、 「実現するもの」ではない、という解釈があったからです。 変に現実主義なところがあったからかもしれませんね。 「夢」の代わりに、もっぱら「目標」という単語を使っていたのです。
ひとつひとつ目標をたて、それを、クリアーしていく。 そうすることにより、自分を高め、生きてきたつもりです。
留学するのもそう、ヨーロッパをバックパックするのもそう、 教師になるのも、すべて「夢」ではなく「目標」でした。 そして、今のところ、教師にはまだなっていませんが、 それ以外は、とりあえずクリアーしてきたと思っています。
それらをクリアーできた理由は簡単。 それだけの努力をしたからだと思っています。 僕には、もって生まれた才能というのは、はっきり言ってありません。 今、こうして今の自分があるのは、つまりは自分の努力に起因するもの だと思っています。 それも、何もかもうまくいってきたわけでもないです。 必ずと言っていいほど、最初はこけますし。
こけて悔しいから、それを超えてやろう、 超えるためには、努力しかない。 そのようなサイクルで僕は今まで生きてきました。 そこには、「夢」という言葉より「目標」という言葉の方が うまく収まったのかもしれません。
では、「夢」と言う言葉が嫌いなのか? 決して、そうではありません。 いや、正確には「今」はそうではありません。 確かに、一昔前は、意識して使わない言葉だったかもしれません。 しかし、今は逆に好きな言葉になっています。
かといって、「目標」が嫌いになったわけでもありません。 目標は今でもありますし、 それが、今の自分を駆り立てる力だと思っています。 また、それが無くなった時が、大げさに言えば、自分が終わる時だとも思います。
最近、思うのです。 「夢」と「目標」を何も排除しあう必要はないと。 この2つのものを同時に左胸に収めればいいではないかと。 しかも、この2つは全くの別物であると。
なんというか、「目標」は言葉であらわせられるモノ。 一方で、「夢」は言葉にできず魂に宿るモノ。 そのように思ったりするのです。
そして、
Live as if I will die tomorrow, dream as if I will live forever.
こんな風に生きたら、少しはカッコいいかなって。
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