時代の寵児…晩年は闘病の日々 赤塚不二夫さん (1/2ページ)時代の寵児…晩年は闘病の日々 赤塚不二夫さん (2/2ページ)「天才バカボン」などのギャグ漫画で一世を風靡した漫画家の赤塚不二夫さんが2日、亡くなった。「これでいいのだ」「シェー」など漫画に登場するキャラクターたちが放つ数々のギャグは、高度成長期の日本列島を笑いの渦に巻き込んだ。晩年は病気との闘いの連続だったが、赤塚さんが生み出した数々のキャラクターは、今も人々の心に息づいている。 「ともに青春を過ごした友達という関係を超えて、彼の才能を尊敬していた。悲しく寂しい。日本の漫画界にとって大変な損失だ」 伝説のアパート「トキワ荘」でともに暮らした友人、杉並アニメーションミュージアムの鈴木伸一館長は、赤塚さんの悲報を受け、がっくりと肩を落とした。 赤塚さんがトキワ荘に入居した当初、少女漫画を描いていたがさっぱり売れなかった。ある日、雑誌の穴埋めとして描いたギャグ漫画「ナマちゃん」が人気に。その後も「おそ松くん」「天才バカボン」など、漫画史に残る作品を連発。一躍、時代の寵児となった。活動も漫画だけにとどまらず、ショーやジャズ祭の演出、タレントのタモリの発掘なども手がけ、キャラクター同様に自身も人気者となった。 平成7年、還暦と漫画家生活40周年を迎えたが、このころから病魔との闘いの連続となった。 9年末に食道がんが判明し、12年には急性硬膜下血腫で開頭手術。それでも笑いへの情熱は失わず、同年に出版した視覚障害の子供たちのためのギャグ満載点字絵本「よーいどん!」が大ヒット。しかし、14年には脳内出血で再び手術、16年からは意識不明に近い状態が続いた。18年には闘病を支えた妻、眞知子さんが急逝した。 また、長女のりえ子さんにとって、赤塚さんの死は二重の悲しみとなった。実母である赤塚さんの前妻が先月30日に亡くなったばかり。わずか数日のうちに両親を失ったのだ。 前妻を追うようにして亡くなった赤塚さん。だが、10年に同じ食道がんを患った落語家、立川談志さんと“がん対談”を行った際の記者会見では、自らの状況をこう笑い飛ばしていた。 「忙しすぎて、死んでいる暇なんかないのだ!」(産経新聞 2008.8.2 21:42)----------------------------(引用終了)-----------------------------突然の訃報に昨晩は驚きを隠せませんでした。赤塚作品では『天才!バカボン』と『おそ松くん』が好きでした。基本はナンセンスでハチャメチャなギャグマンガなのですが、たまに心温まる話もあったりして本当に笑わされたり癒されたりしました。バカボンでは、1ページ1コマか2コマの大ゴマだけで進む話があったり、絵がなくセリフだけで進む話があったりと実験的手法のマンガは、これまでの既存のマンガの常識を打ち破り、マンガの新たな方向性を無限に広げたことにも繋がりました。この功績はマンガ界にとって大きいことなのですが、後になって、実験マンガの多くは、実は多数の連載の〆切りに追われての苦し紛れで生み出された作品だったというオチがあったりして、その伝説すらがギャグに昇華されてしまうように、赤塚先生の凄いところは、実生活でもハチャメチャなエピソードが多く、家族も周囲もそれを認めていたのですから、存在自体がギャグマンガのような人で、まさしくバカボンのパパのような人物でもありました。バカボンのパパの決めゼリフの一つである「これでいいのだ」という言葉は、改めて考えると凄い言葉だと思います。「これでいい」は自己満足だけで終ってしまいますが、「これでいいのだ」は、“これでいい”とすべてを受け止めるばかりか、尚且つ開き直りが入って、周囲にも有無を言わさず強引に納得させる言葉ですから。また「これでいいのだ」は口にすると不思議と前向きになれる言葉で、つらい時に何度励まされたことでしょうか。多くのギャグマンガで笑いを提供してくれた赤塚先生、本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈りいたします。↓この歌が大好きです。元祖天才バカボンEDオマケ:筋肉少女帯「これでいいのだ」