「子猫殺し」直木賞作家 背景に「日本嫌い」日経新聞のコラムで直木賞作家・坂東眞砂子さんが「子猫殺し」を告白したことをめぐって、「全く理解できない」という声が広がっている。坂東さんの「子猫殺し」の背景には充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だ、という独特の考えがある。それがないのが、都市であり、日本だ。「子猫殺し」は、「日本嫌い」の延長線上にある、といってもおかしくない。 日経新聞は2006年8月24日、「子猫殺し」の騒動を受け、坂東さんからのコメントを紹介した。内容は以下のとおりだ。 「タヒチ島に住みはじめて8年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。7月から開始した日本経済新聞社紙面、『プロムナード』上での週1回の連載でも、その観点からの主題が自然に出てきました。『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとっては生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会において、大きな問題だと考えているからです」 充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だと説く つまり、「子猫殺し」は「生」と「死」への深い洞察のなかで生まれたエッセイということになる。坂東さんの作品には実際に「生」や「死」を取り扱った作品も少なくない。直木賞を受賞した『山妣(やまはは)』(新潮社)でも、溺れる祖母を見殺しにするシーンがある。06年7月7日付け日経新聞に掲載されたエッセイ「生と死の実感」のなかでも、「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」「死の実感は生の実感にも通じている。生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ」と述べている。坂東さんはこのエッセイで、最近の青少年の殺人事件で「人が死ぬのを見たかった」「殺してみたかった」などという言葉を聞くことを挙げ、充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だと説いている。さらに、「現代都市生活では獣の死骸はまず見ない。(略)都市とは。死を排除された空間だ」と述べる。つまり、現代都市生活では「死」はことごとく隠蔽され、「死」への実感がないからこそ、「生」の充実もないというわけだ。そして、現代都市生活とは「日本」のことである。その理由は産経新聞に連載された坂東さんのエッセイ「タヒチ通信」を紐解いていくとよくわかる。 (一部省略)「日本という国に、日本という社会に精神的にいられなくなってタヒチで暮らすようになった」 (J-CASTニュース 2006/8/25)ほか関連ソース:高知新聞:坂東眞砂子さんのエッセーに批判相次ぐ(一部抜粋)坂東さんは高知新聞社の取材に対して、「私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻(あり)も、蚊も殺している。生きる、という行為の中に、殺しは含まれています。J-CASTニュース:「子猫殺し」女流作家 今度は「子犬殺し」?(一部抜粋)「子犬殺し」が取り沙汰されているのは、「天の邪鬼タマ」と題したエッセイ。以前ネット上を騒然とさせた「子猫殺し」と同じ日経新聞(夕刊)の「プロムナード」に掲載された。内容は次のとおりだ。「涙を呑んで、生まれてすぐに始末した」 坂東さんの飼い犬は3頭いて、2頭はジャーマン・シェパードで、雌のミツと雄のクマ。もう一頭はミツの娘のタマ。ミツとタマは発情期が一緒になってしまい、出産も数日違いになるという。「前回、ミツはタマの仔を自分の仔だと思って奪い、タマはそれを取り返そうとし、私はどの仔がどちらの仔かわからなくなり、あたふたしているうちに、両方の仔、みんな死んでしまった。今回もまた同時に出産したので、涙を呑んで、タマの子は生まれてすぐに始末した」 文脈からして、「始末した」とは、つまり「殺した」と受け取れる。毎日新聞:<子猫殺し>直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白-----------------------------(引用終了)----------------------------自分に加害するもの(蚊などの害虫)や生きる為に食料とするもの(鳥や牛など)は、これは殺しているだろう。自分が生きるのに必要だから。で、猫はなんのために?>「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」>「死の実感は生の実感にも通じている。>生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ」と述べている。板東氏が言ってることは、一見もっともなような気がしないでもありません。しかし、板東氏が向き合っているのは人間の死ではなく動物の死です。それも自分の愛する猫を傷つけたくない(避妊手術したくない)→子猫なら愛情も湧かない→育ててくれる人を探すのが面倒→殺せばOKという自らが作出した死です。自分が「死」という概念に向き合うためには自分以外の誰かの死が必要だ、「生」と「死」の実感を持ち続けるために、他の動物を食べることや害虫駆除で死を考えるだけでは飽き足らず、子猫を殺し「死」を目の当たりにすることにより、それによって生の意識が充実するという感覚は、どうも気持ち悪い。ここに至って、板東氏の理屈は、詭弁化しているような気がしてなりません。坂東氏は、つまり生まれたばかりの子猫を崖からぽいぽい投げ殺すことで、「生」への充実を感じているわけで、自分が例に挙げている、殺人後に「人が死ぬのを見たかった」「殺してみたかった」と供述するようなガキや殺人で快感を得ているようなサイコパスと同レベルじゃないの。この人、そのうちに人に危害を加えないか心配になってきますよ。↑エンピツ投票ボタンです。読んだら押してくださると嬉しいです。エンピツ時事/社会ランキング エンピツ総合投票ランキングMyエンピツ追加