好きな小説『キノの旅』がアニメ化され今日からWOWOWで始まりました。内容を簡単に紹介しますと、一見すると少年のようなキノが、口を利くモトラド(2輪車)に乗って旅をする、ロードムービー風の連作短編です。そのキノがいろいろな国を訪れ、3日だけそこに滞在します。僕は、表紙のイラストに惹かれこの小説を読んでみたのですが、第1巻のかなり寓意がこめられた「平和の国」というエピソードにこの作者の凄さを見つけ出しました。平和とはどういうことなのか、「戦争がない状態」が「平和」なのか、「平和」は何らかの犠牲の上にしか成り立たないのか、ということをテーマにした話です。ヴェルデルヴァルと隣国レルスミアの戦争。それは、土着民の「タタタ人」を狙撃の対象にし、より多くのタタタ人を狙撃したほうが、勝者になる「ゲーム」のような戦争です。キノは「タタタ人の虐殺か処刑にしか見えない」とヴェルデルヴァルの歴史資料館の館長に言います。館長としては「それは旅人の意見でしかない」と、言外に語っています。彼女(館長)も、夫と息子たちを隣国との戦争で失った「戦争の犠牲者」であるがゆえに、これを考案。そして隣国レルスミアでも同じことを考えた同じような立場の女性がいました。そのことが、この二国間の「戦争のかたち」を生み出したのです。「平和」とは、何かの犠牲の上でしか成り立たない、とこの館長は考えています。たしかにそうかもしれません。「国家」というものが「自国民を守るべきもの」という概念でとらえられている限り、これは普遍的な「国家」の概念です。この館長の考案した「戦争」は、あくまでこの国の人たちにとっては「善」です。それはもちろん、隣国レルスミア国内であっても同じことでしょう。ここで「タタタ人」は、二国の「競争心、敵愾心、残忍さ」を「発散させる存在」としてしか、存在意義を認められていません。それによって二国間の「平和」が守られている。つまり、タタタ人にとっては、現在の状態よりも過去、この二国が全面戦争状態にあった時の方が「平和」であった、ということが想像できます。初めに「寓意がこめられている」と書いたのは、そのことを指します。「国家」というものが、国益及び国防、国民を守る存在である限り、全ての国にとって普遍的な「平和」など存在しない、ということ。悲しいことではあるけれども。おそらく、キノもこれを理解したからこそ、非難めいたことを言わなかったのではないでしょうか。そう、日本のように「平和を叫ぶ」だけで平和が訪れると思っていれば苦労はありません。そんな世界の不条理さを語るために、作者は寓意をこめてこの話を書いたのではないか、と思うのです。このエピソードは、ヘタに「平和を」「平和を」と叫ぶよりもはるかに、「平和とは何か」ということを考えさせてくれます。キノが訪問した国は、他にも「人の痛みが分る国」 「多数決の国」「大人の国」 「優しい国」 「自由報道の国」 「愛と平和の国」「差別を許さない国」 「人を殺す事ができる国」などなど・・・・・・登場する国と人々は総じて人間の愚かさのヴァリエーションです。そこで起こる様々な人間模様。普通この手の話は読後感が悪くて憂鬱になったりするものですが、これほど人間の欠点を並べ立てておいてイヤミにならないのは、作者の世界に対する『慈しみ』のようなものが感じられるからでしょうか。愚かしさを書きながら、一度だけ通り過ぎてゆく人々の不思議な愛おしさ。それがこの小説の魅力の一つといえます。また連作短編だと次第にマンネリ化しがちだと思うのですが、毎回「意外な結末」に持っていく手腕は大したものだと思いますし、どこまでも同じレベルの話かと油断していると突然秘密が明かされたり。この作者はストーリーテリングの名手だと思います。 ↑投票ボタンです。今日の日記が良ければ押して下さいまし。Myエンピツ追加