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2001年12月29日(土) 寛容の精神

今年は「安全性」という考えの根底が崩れる出来事ばかりが起こった一年だった。
できる限り安全で穏かに暮らしていくために築かれた仕組みが、
理不尽な何者かによって、いとも簡単に崩されてしまった。
何が起きても不思議ではない、「杞憂」という言葉がなくなりつつある時代に、
我々は向き合いながら生きていかなければならない。
安全設計を根本的に考え直さなければいけない時期がきているのだろう。
備えあれば憂いなし。結果的に何も起きなかったから無駄だったという考え方を
キレイさっぱり捨て去り、何も起きなければ幸いだった思えばいい。
安全のための投資に無駄はないし、それに対して誰も文句を言える権利はないはずだ。

そんな時代の流れの象徴として、最も衝撃的な事件はアメリカでのテロ事件であろう。
この前の『ニュース23』の特番で米・アフガン両国の現状を伝えていたが、
米国は他者の悲しみへの理解が薄いようだ。
「米国は世界に尽くしているのに、なぜこんな仕打ちを受けるのか?」
「狂った人間を捕まえるためには、どんなに犠牲者が増えても仕方ない。」
「支援物資を送っているから、難民は助かっている」などなど。
米国が世界で何をしてきたかを、米国人は知らないのだ。
そして支援物資が途中で奪われるなどして難民にはほとんど届かない事も知らない。
何故こうなってしまったのかを考えなければ、同じ事が繰り返されるだけである。
国家というのは、強力であればあるほど倫理を重んじ、
他国から信頼を得る努力をしなければいけないと思う。
例をあげれば、60億ドルを出して、ワクチンを配れば、
中南米、アジア、アフリカの数百万人の命を救う事ができる。
しかし現実は犯罪者をかくまったからとその10倍の
資金を使って貧しい国を爆撃している。
ニューヨークで死んだ数千人の命が、エイズや様々な感染症で
死んでいく世界中の数百万人の命よりも尊いと考えているようにしか思えてならない。
「悔しければ、君たちも米国のようになればいい」というだけでは、何も変らない。
自分が正しいと主張するからには、基準に忠実であるべきだ。
病人を救うための60億ドルからは、600億ドルの爆弾よりも確かな安全を得る事ができるはず。
だからと言って、僕はビンラディンを許すというわけではない。
ラディンは狂言者だ。貧者の代表ではないが、貧困や格差に苦しむ人々の
不満を利用した。宗教者として聖なる戦いに自分の身をささげているのであれば、
自分は安全な自然の要塞に隠れているのは卑怯で許せない行為だ。
《軍事力を求めるあまり、国家がその魂を犠牲にして、その兵器を増大させるならば、
敵国よりも、その国こそがより大きな危険に陥ることになる。》
インドの詩人ラビンドラナス・タゴールの言葉。
米国は民主主義、自由、そして寛容さの象徴だ。
しかし最強の国が永遠に最強であり続けた例はない。
だからこそ、唯一の理想や絶対的な価値という考え方をやめなければいけない。
対立する問題に対しては、唯一の理想的な解決ではなく、
少しでも衝突の少ない、考えうる限りの複数の解決方法を用意すべきだ。
どんな宗教にも他者の存在を許すという原理があるはず。
この原理、寛容の精神こそ人類共通の目標にしなければいけない。

今年の社会の出来事を総括してみると、やはり同じ答えになってしまう。
皆さんの社会に対する考え方は今年変りましたか?








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