前回の日記で「私って実は引き籠りに向いてるかも」なんて事を書いたのだけど、今日はその続き。
引き籠り生活中に録画していた
『世界遺産への招待状』と言うテレビ番組を観た。その回は中国で仏教の聖地と呼ばれている「五台山」の紹介だった。中国では出家する人の数が増えているらしく、その事についても掘り下げてあって、なかなか面白い回だった。
その番組を観ていて「そう言えば、話したこと無かったかも知れないけれど、私は若い頃から出家願望があったよ」なんて事を夫に話した。私はありがちな日本人で、これと言った信仰をもたないのだけど、若い頃…と言うか幼い頃から「出家」と言う生き方に興味と憧れを持っていた。本当にそんな生き方が出来るかどうか…とか、信仰が無いのにふざけた事を…とか、突き詰めて言えば馬鹿な妄想に過ぎないのだけど「人はこんな風にも生きられるのか」と言うような驚きと共に、憧れのような物をずっと持ち続けていた。
しかし私は結婚して子供までいる。そして、独身時代も憧れていただけで本気で出家をしようとした事さえない。結局のところ、そこまでぶっちぎって行くだけの情熱は無かったし、自分を取り巻くしがらみ(具体的に言えば家族)を捨てることは出来なかった。そして、そうこうしているうちに結婚して子を成した。
子供を持った今は出家なんて考える余地などない。今の私には娘が一人前になるのを見届ける義務と責任があるのだから。
しかし、いまだ「社会や人と隔絶された世界」に憧れを持つのも事実だ。夫は「出家って合法的アウトローと言うのかなぁ。寅さん的風来坊が現実にいたら後ろ指差されるけど、出家だと後ろ指差されないよね。周囲の人のことを考えずに自分のやりたいことを突き詰めた生き方って意味ではどっちも同じなのに」なんてことを言った。私は今まで、そんな発想を持ったことは無かったのだけど、なんだかすごく納得してしまった。私が山頭火や尾崎放哉に憧れるのも、そういう意味合いでは出家に憧れる気持ちと繋がっているのかも知れない。
人はなかなか自分の望むようには生きられない。だけど自分の望むように生きるのが幸せなのかどうは誰にも分からない。色々と思うこと、考えることはあるけれど、まずは今、自分が置かれた立場に感謝しつつ暮らしていきたい。今週もなんだかんだと無事に過ごせたことに感謝しつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。