父方の祖母が老人性痴呆性で施設に入所したらしい。身内に起こった出来事なのに「らしい」などと、まったく他人事のように書いているのは、父方の祖母とは父が他界して以来1度も会っていなくて、事実上他人も同然なので、そう書かざるを得ないからだ。施設への入所は、今日親戚からかかってきた電話で知った。
この日記をはじめた時、すでに父は他界していたし、祖母とも絶縁していたこともあり、日記には1度も登場したことのない祖母は、しかし私にとって因縁の人でもある。あまりにも嫌い過ぎるので記憶から抹消していたと言っても過言ではない。いまさら恨み言を言うのはどうかと思うが、彼女は恍惚になった息子から「恐いから連れてこんといて、顔見せんといて」と泣き喚かれるほど業深い人だった。
長年の確執を書き上げれば切りがないのだが「絶対許せん」と思ったのは父の葬儀の際の出来事だろう。私達は自宅の長屋で葬儀を出すつもりだったが「そんな恥ずかしい場所で葬儀を出す訳にはいかない」と強引に、父の遺体を檀家になっている寺へ搬送。搬送したはいいものの、葬儀が重なっていて即日の通夜、葬儀は不可能と分かるや「葬儀を待つ間、遺体は葬儀屋で預かってもらいましょう」と言い放ち「そういうサービスはおこなっていませんので」と辞退する葬儀屋に「倉庫でも、どこでもいいから置いてくれ」と食い下がり、息子の痛いを葬儀屋の荷物置き場に運んだ……というとんでもない出来事があった。
もっとも父の遺体は、連絡を受けて駆けつけた父の従兄弟や、私達家族の手で、葬儀屋の倉庫から取り戻した訳だが、あの時は心の底から祖母を憎いと思ったものだ。自分の息子の遺体を葬儀屋の倉庫に置こうという神経の持ち主っていったい……腹立たしいを通り越して、怒りに震えた覚えがある。
葬儀の最中、じっと耐えていた乙女な母は、骨上を済ませて遺骨を手にするやいなや、祖母に啖呵をきって、数珠を仏壇に返して絶縁を宣言した。あの時の乙女な母は、娘の目から見ても惚れ惚れするほど格好が良かった。現在、乙女な母が、どんなにウザくても、重荷でも「この人は死ぬまで面倒を見なければ」と思うのは、父を看取り、祖母に啖呵をきった彼女の雄姿があってこそ……という部分がある。
当時は、憎らしくてたまらなかった祖母だが、四年という年月を経て、その憎しみが薄れていていることに我ながら驚いた。これから先も祖母のしてきたことは許せないだろうし、もう二度と会うこともないだろう。だが、あの時感じていた燃え上がるような憎しみは、もうどこを探しても見当たらない。祖母が痴呆老人になってしまったからそう思うのではなくて、時間がそうさせたのだと思う。
時間は憎しみや、哀しみを風化させるのだな……と思った。
つくづく人間の脳は上手く出来ていると思う。憎しみや、哀しみといった負の感情は風化していくようになっているのだ。出来ることなら喜びや、幸せといった美しい感情は風化することなく記憶に刻んでいきたいものだ。
この日記に祖母のことを書くなんて日は来ないだろうと思っていたけれど、これも1つの節目かも知れないとて、書いてみることにした。これで本当に祖母とサヨナラできるような気がする。そんなこんなを書いてみたころで、今日の日記はこれにてオシマイ。