昨日は夕食の後で、戴き物の「やまもも酒」をあけた。
薄いピンク色がラブリーで、キャップをあけると甘酸っぱい匂い。
乙女な母と、愚弟と、私のコップを並べて「やまもも酒」を注いでいると
「なんか子供にカルピス作ってるみたいやなぁ」と愚弟。
食べ物や飲み物を分ける時は「均等」に始まり「均等」に終わる。
これは分配する人間に課せられた使命のようなものなのに
愚弟は、そこのとこを分かっちゃいないようだった。
濃い目の水割りにして飲んだの「やまもも酒」は
サッパリしていて夏向きの味だった。
私は、以前よりアルコールを飲まなくなったようだ。
仕事の後のビールとか、友人と宴会なんかは今でも好きだが
以前ほど「飲みたい」と思わなくなったような気がする。
年齢的なものもあるのかも知れないが飲む量もガクンと減った。
今まで自分のことをアルコール好きな人間だと思っていたのだけれど
よくよく考えてみると、私はアルコールが好きなのではなくて
アルコールを飲む時のシュチュエーションが好きだったのかも知れない。
風呂上りは、やっぱりビールだね……とか
おでん食べる時は、日本酒をキュッといきたいね……とか
美味しいチーズを見つけたからワインを飲もうか……とか
お刺身にできるお魚を戴いたから、冷酒でも買ってこようか……とか
書き出したら、どんどん出てくるのだが
「お酒」そのものよりも雰囲気に酔っていたのかも知れないなぁ〜と。
シュチュエーションも大切だが「誰と」ってのもポイントが高くて
もちろん、言えでPCに向かって1人で飲むのも嫌いぢゃないが
職場の飲み会より、友人と飲む方が好き…ってのは書くまでもなくて
好きな人とのお酒なら、チェーン店の居酒屋さんでだって美味しく飲めるし
嫌いな人とのお酒なら、高級店のお酒だって不味いと思う。
ちなみに、戴き物のお酒は、たいてい美味しいと決まっている。
タダ酒が好きって訳ぢゃなくて「戴いた」ということが意義深いのだ。
先日、スペインの暮らしを書いたエッセイ本に
スペイン人は、アルコールが好きな人も多いし、
昼間からでも飲んだりするが
日本人のように見苦しく酔っ払うことは少ない。
……と書いてあったのを読んで、色々考え込んでしまった。
アルコールは憂さ晴らしの方法と言われているけれども
本当にそんなもので憂さなんて晴れるのだろうか?
アルコールくらいで晴れるようなら「憂さ」とは言えないような気が?
依存症のレベルになると病気だと思うのだが
そうでない場合は言い訳として使われることが多すぎるように思える。
もっとも言い訳ってのも、逃げ道として必要だとは思うのだが。
大人になると分かってくることは多いが
大人になっても分からないことも多い。
やまもも酒をのみながら、うだうだとそんなことを考えてみた。
今夜も、残っているのを飲もうかなぁ……と思いつつ
今日の日記は、これにてオシマイ。