『もしも世界が100人の村だったら』って本を人から借りて読んだ。
読書日記には残しておきたくないタイプの本なので
こっちの日記書こうと思う。
……というのも、私の好みの本ではなかったからだ。
『もしも世界が100人の村だったら』は書店でも山積みで売られているが
もともとはWeb発だったはず。
ちょっくら前に、大流行して、ネット世界の住人達を感動させたようだが
このテの理論の展開って、私は好きぢゃないのだ。
なにも頭から否定してかかるつもりはないのだけれども……
私は『もしも世界が100人の村だったら』を読んで思い浮かべたのは
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という日本の古い言いまわしだった。
『もしも世界が100人の村だったら』の考え方が間違っているとは思わないし
現実問題として考えるならば「まってくもって、その通り」だと思う。
広い世界には、色々な人がいて、色々なことがあって
自分には思いもよらない暮らしをしている人がいる。
しかし「私の位置はAよりも下だがBよりも上である」というような
幸せのはかり方というのは、どこか間違っているのではないだろうか?
間違い…と言うよりも、むしろ「傲慢」という方が適切かも知れない。
『もしも世界が100人の村だったら』で書かれていたことを引用してみるなら
文字が読めるから、教育を受けたから、食べ物が豊富だから……
だから自分は幸せだと定義してしまうのは短絡的だと私は思う。
あらゆることに恵まれているから幸せだとは限らなだろ。
あらゆることに恵まれていないから不幸だとも限らないだろう。
もちろん「戦争」や「貧困」といった状況が幸せだと言うないのだが。
他者と自分をくらべて、自分の幸せを計るという方法は
あまりにも「自分」というものを粗末にしているような気がしてならない。
確かに「何かと比べたい」という気持ちは誰にだってあるものだが
それを基準にして、安心するというのは、いかがなものだろうか?
そして……「自分より不幸な人がいるから」なんて発想じたい
どこか病んでいるように思えてならなかった。
他者との比較で確立するのではなく
「自分は自分」「私は私」という意識を持つ方が素敵ぢゃないの?
……みたいな。
広い世界を見渡してみて、つつましく、喜びを感じながら生きていこう
……という考えは素晴らしいと思うし
日頃、考えようともしない「世界」について考えるのは良いことだと思う。
『もしも世界が100人の村だったら』に出会って
自分自身の幸せを再確認した人がいるのなら
それは決して、悪いことではないとは思うのたけれども……
なんとなく「自分」を大切にしていないような理論の展開ではないかと
私は、そんな風に思ってしまったのだ。
素直に感動できなかったのは、私が「ひねくれ者」だからかも知れない。
屁理屈っぽく「流行物」について語ってみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。