白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2002年05月27日(月) 幸せを掴む手…ぢゃなくて。

「幸せを掴む手」という言葉を知ったのは高校生の時だったと思う。

ある小説の中で……
主役でもなんでもない女性が、こっぴどい失恋をする。
でもって、その友人が彼女のことを心配するのだけれど
「大丈夫。彼女は『幸せを掴む手』を持っているから心配ない」
……ってなことを言う人物がいて「そうかもしれないねぇ」
とて、なにげに納得する……という場面で知ったのだ。

事実、その女性は芯のしっかりした人で
間違いなく、失恋からも立ち直って幸せになりそうなタイプだったのだが
当時、高校生だった私は、そのセリフにいたく感動した覚えがある。

「そうか。なにも大勝しなくても、掴むもの掴んぢゃえばイイんだ」なんて。

「幸せを掴む」って簡単と言えば簡単だし、難しいと言えば難しい。
そもそも「幸せって、なんだっけ?」ってな事を考えはじめると
幸せの数だけ、「幸せを掴む手」も用意されているだろうし
「幸せを掴む手」ってものがあるのであれば
「幸せを掴めない手」ってのもありそうで、これは、なんだか嫌な感じ。

ぐるりと周囲を見渡してみると
「幸せを掴む」のが得意そうな人と、苦手そうな人がいるなぁ……ってのは
なんとなく感じるものがあったりする。
性別とか、年齢とか、環境とか……
そんなのを飛び越えたところで、なんとなく。
掴もうとしているのに、どっかポロリンと取りこぼしちゃうような人が
チラホラいるような気がしてならない。

昔は「幸せを掴む手」ってのに、漠然と憧れていたのだけれども
今は「幸せを掴む手」がなくても「幸せを掻き集める熊手」があれば
それで充分、ことは足りるよなぁ……とか思ったりする。
取りこぼした物だって、熊手だったら
ザカザカと掻き集めて万事OK……みたいな。

「幸せを掴む手」ってのは先天的なもののような気がするけれど
「幸せを掻き集める熊手」なら、誰にだって使えそう。
持ってなければ、買えばいいし、借りればいいし……そんな感じ。

童話のタイトルに使えるかも「しあわせを かきあつめる くまで」とか。
商店街の端っこにある、古びた雑貨屋さんに売ってたりしそう。
無口な婆様が店番してて、熊手はお店に1本しかなくて
売れちゃったら、オシマイ……のはずなのに
翌日には同じ場所に、ちゃんと熊手が置いてある……とか、なんとか。

昼間っから、いい年した大人が、なにをメルヘンしてるんだか。
↑書いているのは昼休みのため。
すごく暇な人みたいだなぁ……私ってば。

なんぢゃら、かんぢゃら、とりとめのない事を書き散らして
今日の日記は、これにてオシマイ。

<追記>
タイムリーなことに帰宅したらば大切な友人からメール。
「幸せを掻き集める熊手」で、速攻、掻き集める。
友人にも「幸せを書き集める熊手」をプレゼントしたいなぁ。
ぢつは、もう持ってるかも知れないけど。


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