先日、WEBニュースの記事で読んだのだけれど
最近はアメリカにも「WEB公開日記」が流行しつつあるらしい。
「インターネット」の主な利用方法は国によって異なっているらしく
私が慣れ親しんでいる「公開日記」「掲示板」「チャット」という形でもって
インターネットをコミュニケーション・ツールとして使用するのは
世界的にみると、まだまだ一般的ではないらしい。
ちなみにアメリカで「WEB公開日記」が流行しているという記事には
少々、辛口なコメントが付けられていて私は思わず苦笑してしまった。
人は何故に「公開日記を書くのか?」
その目的も、はじめた理由も、人それぞれではないかと私は思う。
純粋に「日記」だったり「記録」として書いている人もいるだろう。
「創作物」を掲載するスペースとして活用している人もいるだろう。
「王様の耳はロバの耳」と言えない事を叫んでいる人もいるだろう。
私も一時はは「どうして公開日記を書くのか?」
……と言う事について迷ったことがあったのだけれど
色々な方に「背中ポン」「お尻ポン」とプッシュしていただいたおかげで
今は確かな目的意識を持って「公開日記」を書いている。
私の日記は、私の毎日の暮らしを少しでも楽しくするため手段。
私の日記は、私に起こった出来事を自分の中で整理するための手段。
……だから私は自分の書いた日記を、数日後に読み返してみたりする。
いつも感情の赴くままにキーボードを叩くので
誤字脱字や、文章の乱れを発見する事が多くて赤面もなのだけれど
それも、これも、自分が辿ってきた軌跡という感じだろうか。
「ある日記」の出現によって「エンピツ日記」内では
「ランキング論」や「投票ボタン論」が白熱しているが
私は、それぞれを興味深く拝読させていただいている。
ただ、私の場合「投票ボタン」や「ランキング論」に関しては
正直なところ「どうだっていいや」と思っている。
投票ボタンを細工したい人は細工すればいい。
上位ランキングを狙う人は、それに向けて努力すればいい。
「公開日記」に対する心構えが、人それぞれに違うのならば
公開の方法が変わってくるのは、当然の成り行きだと思うのだ。
これは、もう「クドイ」ほど何度も書き続けていて
たぶん、これからも書きつづけていくと思うのだけれど
「公開日記」と言うものの、日記はあくまでも「個人」のものなので
個人に対する攻撃だけは「やっちゃイカン」とは思うのだけれども。
ただ1つだけ……
「投票ボタン」については日頃から思っていることがある。
私は日記を読んだら「読みましたよ」という足跡として
「投票ボタン」を「ポチッ」と押させていただいている。
これは偽善であるとか、そういう訳でも、なんでもなくて
私自身が「ポチッ」の重みに幸せを感じている人間だからである。
カウンターが回っていれば、誰かが訪ねてくれた証にはなるのだけれど
「投票ボタン」は「読んだよ」という何よりのメッセージだと思うのだ。
もちろん、どうしても「同意できない」ような文章だったりしたら
ごくまれに「ポチッ」と投票しないで戻ってしまう事もあるのだけれど。
ただ「ポチッ」の重みってヤツは
「読みましたよ」…という足跡でも
「激しく感動しました」…という熱い思いでも
「上手い! 山田君〜座布団十枚」…という気持ちでも
「ポチッ」は「ポチッ」と言う単なる1票にしか過ぎないのだ。
「激しいボタン」があればいいのに。
激しく感動した時は日記作家さんに気持ちを伝えたいと思うのだけれど
そのたびに「メール」したり「掲示板に書き込み」できる訳ではないし
だいたいからして、そんな手段を置いておられない方もいらっしゃるのだ。
だから、そんな時のために「投票」と「激しく投票」に
違いが付けられたりなんかしたらどうだろうか?
大笑いしましたよ…と「ポチッ」
思わず涙しました…と「ポチッ」
激しく同意したよ…と「ポチッ」
……みたいな感じで
日記作家さんにダイレクトな感情が伝えられたらいいのになぁ
……などと思ってみたりするのだけれど
もしも、そんな事が可能になってしまったら
「エンピツ日記」内は、たくさんの人々の激しい感情のぶつけ合いで
そりやぁ、もぅ大変な事態におちいってしまうかも知れないし
いちいち激しい感情をぶつけたり、ぶつけられたりした日にやぁ
それこそ、おちおち日記なんて書いていられなくなってしまうかも知れない。
「ポチッ」と1票は、やはり1票分だけの重みであるのが
ちょうど良いのかも知れないなぁ……などと自分に言い聞かせつつ
それでも「激しいボタン」があればいいのになぁ…と思ってしまう。
なんとなく「エンピツ日記で流行っている話題」に乗っかってみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。