金色の夢を、ずっと見てる

2005年09月24日(土)

今日は午後から母校である大学へ行ってきました。

春に亡くなった先生を偲ぶ卒業生の集いがあったからです。


サヤカとアヤノを迎えに行って少し遅れて会場に着いたら、先生が入院される直前にやったという講演会のビデオが流れてました。

鼻腔に悪性リンパ腫ができてた先生。入院される2ヶ月ほど前から鼻詰まりが酷かったそうで、その講演会も正直かなり聞き取りにくいものでした。

その後、先生と付き合いの深かった2人の方からのご挨拶を頂き、いろんな年代の卒業生が先生との思い出を語っていきます。最初に話したのは、去年度の卒業生。つい最近まで先生に教わってた人です。

『授業中に怠慢な態度を取ってた生徒を前の教壇の所に呼びつけ、“講義を聞く気がないのなら出て行け!”と一喝された先生の声が忘れられません』

あ〜私達の時にもあったなぁ(苦笑)

授業中に本を読んでた男子生徒がいたんです。気付くや否やその生徒を教壇の前に呼び、
「つまらないなら聞かなくてよろしい。出て行きなさい。その代わり、来週からもうこの講義には来るな。君には授業を受けさせない。当然、今年は単位はやれん。どうしても単位が必要なら、来年また履修しなさい」
厳しい声でそう言い渡し、本当にその男子生徒を追い出してしまった。その彼は授業の後に先生の研究室まで謝罪に行ったんだけど結局許してもらえなくて、翌年再履修してたような記憶が。

だって先生の授業、必須科目だったんですよ(笑)


また別の卒業生の話。

『ある日の夕方、先生から“○○君、一緒にお茶を飲んで帰らんか。民家を改装したいい雰囲気の喫茶店があるんだ”と誘われ、先生を助手席に乗せて言われるままに走りました。“ここだよ、ここが民家を改装した喫茶店だ”と言われて中に入り、お茶を飲みながらしばらく話してて気付きました。・・・・・先生の家でしたね』

先生ならやりそう(笑)


そんな笑っちゃう想い出から、もちろん先生らしい熱心で一生懸命な指導の話まで、その語りは10人以上、2時間にも及びました。1つ1つが懐かしく、自分が直接知ってるわけじゃないエピソードもありありと目の前に浮かんで、涙が止まりませんでした。

中でも泣けたのは、私達と同期の大平君のスピーチでした。

大平君は、卒業の頃から付き合いだした同期生の彼女と結婚し、その時に先生に仲人を頼んでました。大平君の奥さんは今は2人の子供の育児のために仕事を中断しているんですが、大平君はその事にふれて言いました。

『今、自分の妻は育児のために専業主婦をしていますが、育児仲間の相談にメールで答えたりしてる姿をよく見ます。たとえ職業として福祉に携わってなくても、自分のできる範囲で援助技術を展開している。彼女は先生から教わった“クライエントの立場に立った援助”をそういう形で実践しています。僕はそれを見ていて、いつもすごいなぁと感心するのです』


同期生の語る想い出だけにリアルな話が多く最初から泣きながら聞いていたのですが、彼のその言葉を聞いて私は本当に号泣してしまいました。


私は、いろいろあった結果、今は福祉とはまったく関係ない職業についています。

今の仕事はもちろん好きだけど、“福祉系の仕事をしていない”というのは私にとって1つの負い目でした。せっかく4年も勉強したのに、それを生かせる仕事をしていない。先生方に教えてもらった事を活かせていない。その気持ちは常に私の中にあって、先生方に対して後ろめたいというか、申し訳ないような気持ちでいたのです。

でも大平君のスピーチを聞いて、それでもいいのかもしれないと思えました。


帰りの車にサヤカにそんな話をしたら、サヤカもあっさりと
「うん、私も福祉系の知識を持った人間が一般企業にいるのは良い事だと思うよ。だってバリアフリーとかノーマライゼーションとかそういう考えを私達は当たり前の物として持ってるじゃない。それは企業にとって必要なものだと思う。例えが悪いかもしれないけど、咲良ちゃんの会社の人に子供が生まれて、その子が障害児だったとするじゃない?そしたら咲良ちゃんは、そういう場合の社会的資源としてどんなサービスがあるのか、教育にあたってどんな受け皿があるのかって事を教えてあげられる。それも1つの福祉の実践だよ」
と言ってくれました。


あぁ、そう思えるのなら私はどれほど救われるか。



集いの最後に、先生が去年度の卒業生に送ったというメッセージが流されました。昨年の夏から闘病生活を送り、冬に1度は治ったと思ったものの3月にまた再発。卒業式に出席できなかった事を本当に悔やんでいた先生からのメッセージです。

授業を終わらせられなくて申し訳なかったという事。
就職が決まってる皆、頑張ってくれという事。
まだ就職が決まってない皆も、福祉系の職場は不規則な時期に求人があるから、諦めずに根気強く探して、希望の仕事を見つけてくれという事。
いつか治ったら皆の卒業祝いに飲もうという事。

そして最後に
『たまには病院にも顔を出してください。・・・ちょっと寂しいです』
決して弱音を吐かなかったと言う先生が、どんな想いでその言葉を口にしたのかと思うと、また泣けました。

去年の夏、入院されてすぐの頃に1度お見舞いに行きました。でもその後放射線治療が始まり、その姿はあまり生徒に見せたくないから・・・という話を聞いて、その後1度も行かなかったのです。痩せて、髪も抜けて、別人のようになってしまった姿を見られたくないだろう・・・・そう言い合って、いつか先生が元のように元気になって、その時はまた以前のように飲める。そう信じて、否、信じたくて、お見舞いには行きませんでした。


でも行けばよかった。


先生に『寂しい』なんて言葉を言わせてしまうぐらいなら、迷惑かもしれないなんて勝手に決め付けないで行けばよかった。

戦ってる姿を見せたくないだろうから・・・なんて言い訳です。





本当は、自分が見たくなかった。


弱っている先生の姿を見るのが怖かった。


今更ながら悔しくて悔しくて。




久しぶりに、泣きすぎて頭痛がする程泣きました。こんなに泣いたのは、先生のお通夜以来じゃないかな。

先生が亡くなられてちょうど5ヶ月。

もともと、卒業して以降は会う機会も減っていました。誰かの結婚式とか、学部の同窓会みたいな飲み会の時ぐらいしか会いませんでした。

だから今も、先生が亡くなったのではなくて、いつものようにちょっと長い事ご無沙汰してるだけ・・・のような気分なのです。


それでも、こうして先生の事を語り合うと涙が出ます。それはやっぱり、心のどこかで“もう二度と先生には会えないんだ”と判っているからなのでしょう。


福祉の仕事に就く事がなくても、先生に教えて頂いた事は当たり前のように私の中にあります。それは考え方であったり、ものの見方であったり、知識であったり。さまざまな形をしていますが、確かに私の血となり、肉となっているものです。

それを忘れずにいる事が先生への恩返しになるのなら、これほど幸せな事はありません。

先生の教え子であった事を誇りに思います。


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咲良 [MAIL]

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