前潟都窪の日記

2004年08月20日(金) 【異常と思える程に車の少ない社会、サルサのリズム溢れる国・・キューバ】

キューバの旅 ハバナ、バラデーロ、トリニーダ
                  2000年8月9日〜8月15日
 カストロが革命を成就して以来1962年にアメリカとの国交が断絶し、社会主義体制の道をひたすら歩んできたキューバは一般観光客には閉ざされた遠い国であった。が、日本からの直行便が2000年の8月からチャーター便として就航するようになった。ベルリンの壁崩壊以来、社会主義体制の国々が大きな変容をとげつつある現在、キューバの社会の現実を見学することには非常な興味があったので八月九日発の第二便でキューバ周遊の旅に参加した。

 空港からホテルへ着くまでにハバナ市内のマリアナ地区とジボネイド地区を通り抜けたが、マリアナ地区は下町の雰囲気があり、建物も見すぼらしく上半身裸の男たちが家の前に屯していてなんとなく低所得階層の町といった佇まいである。

 これに対してジボネイド地区は革命前にはアメリカ人達が住んでいた高級住宅地である。敷地も広く瀟洒な建物が多い。現在では各国外交官の居住地として或いは国の文化施設として使われているということで手入れもよく行き届いていてそれなりに美しい。

 ホテルまでの道中の第一印象は道路を走る車の数が異常に少ないことと、



マリアナ地区の建物は補修されておらず薄汚い建物が多いということであった。このような廃墟寸前の建物を見ると何故か東欧のドレスデンやプラハの町を歩いたとき感じたのと同じような社会主義のもたらした負の遺産をここでも再確認した思いである。

 革命広場には高さ109mの塔がそそり立つホセ・マルティ記念博物館、国立劇場、国立図書館、内務省、軍関係の建物等が広場に面して建っている。博物館の前には、第二次独立戦争(1878〜1883)の指導者であるホセ・マルテイの18mにも及ぶ大理石像が建てられていて広場を見守っている。軍関係の建物の壁面にはゲバラの顔が大きく描かれていて、記念撮影の対象として最も有名である。この革命広場には1959年以降、最大百万人が集まったことがあり、7月26日の革命記念日には、カストロ首相が高台に立って演説をするのである。このあたりは如何にも社会主義国家らしい街の佇まいである。

 ガイドのパブロさんにいくつか質問をしてみた。
 先ず、土地や建物の所有制度について聞いてみると土地も建物も国家の所有であり、国民や企業は国からこれを借りて利用しているという。建物を店舗または事務所として借用し商売を営むには収入の10%を家賃として国家に収めなければならないし、営業利益から税金も収めなければならない。観光バスの運転手やガイドのパブロさんも公務員であり世界的に有名なダンシングチーム「トロピカーナ」の踊り子達も公務員なのだという。

 次に公務員の給料について聞いてみると水準は職種により通常一カ月当たり100ペソから186ペソであり、特殊なものは最高800 ペソのものもある。1ドルが21ペソとして換算すると4.8ドル(528円)から8.9ドル(979円)という低い標準であり、最高職でも、38ドル(4180円)にしかすぎない。勿論これだけでは生活できないわけで、米や肉類等の生活物資は別途配給されるらしいが詳しいことは教えて貰えなかった。

ヘミングウエイの邸宅

 ソビエット連邦の崩壊はキューバ経済にも深刻な影響を与え従来のように社会主義大国からの経済援助が受けられなくなったので、苦難の経済運営を余儀なくされた。経済自立のための色々な試みがなされるようになったのであるが、その一つが5年ほど前から始まったドル通貨の採用と国内自由市場の認容である。ペソの国際信用力は皆無に近いので信用力のあるドルを自国で流通させて自国経済を国際経済システムの中へ強制的に組み込んでいこうといういわば一種の荒療治である。ペソ経済とドル経済という二重の経済制度を取り入れたことになり、外来の観光客の頭には経済の混乱がおこるのではないかという心配があるがガイドはあまり触れたがらなかった。

 そして農産物等の60%は政府で収納し政府の管理下へおかれるが30%は自由市場へ廻されて市場経済原理に基づく価格形成が行われるようになった。それでも自由市場で売られる商品は価格が高いという。この自由市場ではドルしか通用しないからドルを持っていない人は買い物ができないのである。市場の入り口にはペソとドルの交換所が設けられているが何故か撮影が禁止されている。

 最初道路に自動車が異常に少ないと感じたことの秘密は輸入に頼るガソリンの供給を政府がコントロールしていることと新車の購入権を独占している政府が新車の購入をコントロールしていることにあるようだ。タクシーには新車が目立つが、値段の安い韓国製が多く目についた。中古車ならば民間人も購入できるということであり、1960年式のアメリカ車が大いばりで町中を走っているのも近頃珍しい光景である。古い年式の車だと部品がなくて困るだろうと聞いてみると、ソ連製の車の部品が転用できるから大丈夫だということである。    

 道路の風景について更に印象を述べると自動車の数が少ないことに比例するように、この国のバスは何れも超満員で走行しており、バスの停留所には沢山の乗客が屯している。 そして土曜日とか日曜日になるとトラックの荷台に若者達が立錐の余地もないほど立ったままで乗っていて楽しそうに話している。これは休日を利用して海浜へ水浴に行く人達で、会社に申請してトラックを行楽のため借りだしているのである。また道路端には停留所のない場所に佇んで、通りかかりの車に手を挙げて合図している人の群れをよく見かける。このような人を発見した場合、運転手には車に収容する余地のあるときには停車してピックアップする義務が課せられているのだという。このあたりに需要を無視した何かチグハグな社会主義国家の統制力というようなものを見る思いがした。

保養地の海浜
 更に町中の公園近くの歩行路に夥しい数の人の群れが行列を作っている光景をみかけることがある。これはコッテリアのアイスクリームを求めて並ぶ群衆である。

 ホテルの個室に備えられているテレビではCNNのチャンネルも選択できる。ハバナのホテルではCNNの言葉はスペイン語であったが、バラデーロでは英語であった。アメリカと国交を断絶しているのにCNNが受信できるとは情報統制が意外に緩やかだなと意外に思いながらそのへんの事情を聞いてみると謎が解けた。つまりスペイン語の放送はCNNの生放送をそのまま翻訳して流しているのではなくて政府の手で取捨選択が行われたうえで放映されているのであり、英語の放送はバラデーロというリゾート地故、外国人しか聞く人がいないから生放送をそのまま流しているのだという。キューバ人がパラボラアンテナを設置してCNNの生放送を受信することは禁止されており違反すると処罰されるというのである。北朝鮮の報道統制の厳格さと比較して情報統制の巧妙さを感じた。

 キューバとアメリカの民間人の相互の国への出入国について聞いてみると先ずアメリカ人がキューバへ入国するには第三国を経由すれば原則自由であるが、キューバ人がアメリカへ入国することは非常に難しい。先ず年間二万枚に制限されているビザを入手することが最初の難関であり、次に十分なドルを調達するのが難しいからであるという。

 この国の主要産物のである葉巻とラム酒の製造工場を見学した。
 葉巻工場はどこもかしこもニコチンの臭いが充満しており作業環境は劣悪である。仕事は、葉の選別作業から始まり、葉の中央にある太い繊維を除去する作業、



葉を巻いていく作業、包装用の箱を作る作業、箱詰め作業、ラベル張り作業と順次工程順に流れていくがいずれも手作業である。多くの老若男女が椅子に腰掛けて作業をしていたが端的に表現すれば工場制手工業(マニュファクチャー)である。日本であればすべての作業は機械化してしまうであろうと思われる単純作業である。

 ラム酒製造工場は日本のビール工場や清酒工場のイメージとは全く異なっており、工場とは名ばかりで、樽詰めされた樽が熟成を待って保管されているだけといった感じの倉庫にすぎない。ラム酒は砂糖液を発酵し蒸留して熟成させ作られるのであるが、この工場にはそのような設備は全然見当たらず瓶詰めの作業も見ることができなかった。発酵させ蒸留されたアルコールが樽に詰められてこの工場へ運びこまれ熟成されるという説明であった。ここもアルコールの臭いがいたる所に充満している上に蒸し暑く作業環境は劣悪の一言に尽きる。

 葉巻工場にしろラム酒工場にしろわざわざ見学する程の価値はなく、付属の店で商品を売りさばくための囮としての工場見学という印象を否めない。劣悪な作業環境といい、単純作業といいこれが社会主義国を標榜する後進国の生産現場の現実である。

 この日最後に自由市場を見学したが、肉、果物、野菜、米等の食料品と手作りの民芸品などが並べられており、住民達で賑わっていた。並べられている商品も豊富ではあるが品揃えが貧弱でまだまだ消費者主役の社会には程遠いという印象を受けた。

 夜はホテルで夕食を摂った後、世界的にも有名なキャバレー「トロピカーナ」へサルサのショーを見学に行った。客席は屋外に設置されていて高い樹木に囲まれていた。総勢百人程の男女のダンサーが入れ代わり立ち代わり現れ、ラテンのリズムに乗ってサルサを踊るわけだが、色とりどりのカクテル光線を浴びて美しい躍動感溢れる光景を作りだしていた。鉄棒の曲芸などサーカス的な要素も取り入れており、ラム酒ベースのカクテルを味わいながら楽しい夜の一時を過ごすことができた。踊り子達は幼少から英才教育を受けたエリート公務員である。サルサは1960年代に中南米の移民達を中心にキューバ音楽をベースとしてニューヨークで生まれたダンスである。そのルーツはアフリカ系移民が密かに信仰していた宗教サンテリアで使われていた打楽器チャンゴのリズムと砂糖黍刈りの手足の動きを踊りに取り入れたものである。

 トリニダーへ向かう時走行した高速道路には殆ど車が走っておらず、借り切り専用道路の感があった。これほど車の少ない国はいままでの旅行で見たことがない。


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