| No._ _ _ _ _ _ _ _ _ Date 2007年02月15日(木) |
| l a u g h AND s a d n e s s - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 向き合いたくない現実と向き合うことが、自己分析に繋がるのなら それは結構しんどい作業だな とこの日記を読み返して思った 自分の文、当時の考え方ってイタい・・・という言葉一様に塗ることは出来ないけれど、大半がそんなかんじ でもそんな感じで、客観視を通り越して目を逸らすんじゃなくて、 主観を持ちながら客観的な立場から見ることができないといけないんじゃないか。 なんで、人に見られて恥ずかしいわけじゃないのに 自分で自分のことを振り返るのが恥ずかしいんだろう 当時の周囲の人に対して感じる恥ずかしさでしょうか。ああ、まったく・・・ 青森の高校生は茨城の大学生になりました。 パソコンは当時のまま。せっかく手に入ったアイポッドに拒否されるOSです。 経たことはたくさんあって、 得たものは自分を客観視する能力がまずひとつあると思います。 これがなければ、自分を周囲とのかかわりの中に置いた成長は出来ないのだと思います。 うねうね、くねくねとしたひねくれがあり、そのひねくれを自分で嫌って、後いろいろな落胆があって手にした自己の客観視です。 …今のところ生かせておりません。 ちょっと考えてみた。 悲しみの共有、からはずされてしまったことが、私をさびしくさせているのではないか。 でも、悲しみの仲間に入れて、とは私は言ってはいけないのだ。 なぜなら、加害者側の立場であるから。 じゃあなぜ、加害者側?である彼が彼女の立場にいるかというと、 私が彼女に選択されなかったということにおいてかれと異なる、ということなのだろう。 選択されなかった理由が、彼女の心のうちなのか私の振る舞いにあるのか、たぶん後者ではあるが。私の心が広くなかったせいだ。 そのときも、自分はひどい人間だな、と思った。 割と、限りなく、利己的だ。心の中では、人の気持ちを踏みにじっている。 多分もっとここは考えなきゃいけないんじゃないかな いろいろ変わった。 死の深遠さと接した人の悲しみを思い知った。 夏なのに、寒かった。おじいちゃんのときは暑かったけど。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - |