加藤のメモ的日記
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司祭は司祭で壁板に頭を強く押し付けたまま、老人の告白をぼんやり聞いた。老人が何もいわなくても、その夜がどんなに真っ暗だったかは、もう、知り過ぎるほど知っている。それよりも彼はフェレイラの誘惑を―自分と同じようにこの闇の中に閉じ込められたことを強調して共感をひこうとするフェレイラの誘惑に負けてはならなかった。「わしもあの声を聞いた。穴吊りにされた人間たちの呻き声をな」その言葉が終ると再び鼾のような声が高く低く耳に伝わってきた。いやもうそれはいびきのような声ではなく、穴に逆さに吊りにつられた者たちの力尽きた息たえだえの呻き声だということが、司祭にも今ははっきりとわかった。
自分がこの闇の中でしゃがんでいる間、誰かが鼻と口から血を流しながら呻いていた。自分はそれに気がつきもせず、祈りもせず、笑っていたのである。そう想うと司祭の頭はもう何が何だか分からなくなった。自分はあの声を滑稽だと思って声を出して笑いさえした。自分だけがこの夜あの人と同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた。だが自分よりももっとあの人のために苦痛を受けている者がすぐそばにいたのである。どうしてこんな馬鹿なことが頭の中で、自分ではない別の声が呟き続けている。それでもお前は司祭か。他人の苦しみを引き受ける司祭か。主よ。なぜこの瞬間まであなたは私をからかわれるのですかと彼は叫びたかった。
「讃えよ、主を、わしはその文字を壁に彫ったはずだ」とフェレイラは繰り返していた。「その文字が見当たらぬか、探してくれ」「知っている」怒りにかれれて司祭は初めて叫んだ。「黙っていなさい。あなたはその言葉を言う資格はない」「権利はない。確かに権利はない。私はあの声を一晩耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間……この私は、汚物を詰め込んだ穴に中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」フェレイラはまるで吠えるような叫び声をあげた。「わしが転んだのはな、いいか、聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必至で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
「黙りなさい」「ではお前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼らがあそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神の何もせぬではないか」司祭は狂ったように首を振り、両耳に指を入れた。しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ。主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていては行けぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない」
マストをかすめる鳥の翼のように大きな影が心を通り過ぎた。鳥の翼は今いくつかの思い出を、信徒たちのさまざまな死を運んできた。あのときも神は黙っていた。霧雨の降る海でも沈黙していた。日の真っ直ぐに照る庭で片眼の男が殺された時も物言わなかった。しかしそのとき、自分はまだ我慢することができた。我慢するというよりこの恐ろしい疑問をできるだけ遠くに押しやって直視しまいとした。けれども今はもう別だ。この呻き声は今、なぜ、あなたがいつも黙っているかと訴えている。「この中庭では今」フェレイラは悲しそうに呟いた。「かわいそうな百姓が3人ぶら下げられている。いずれもお前がここにきてから吊られたのだが」
老人は嘘を言っているのではなかった。耳を澄ますと一つのように聞こえたあの呻き声が突然、別々なものになった。一つの声があるいは高くなり、低くなるのではなく、低い声と高い声は入り乱れて入るが別の方向から流れてきた。「わしがここで送った夜は5人が穴吊りにされておった。五つの声が風邪の中でもつれあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き上げ、縄もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬのかと。役人は笑って教えてくれた。彼らはもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限りあの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」
「あなたは」司祭は泣くような声でい言った。「祈るべきだったのに」「祈ったとも。わしは祈り続けた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴が開けられている。その穴と鼻と口から血が少しづつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」司祭は覚えていた。西勝寺で始めて会ったフェレイラの耳のうしろにひきつったた火傷の痕のような傷口があったことをはっきり覚えていた。その傷口の褐色の色まで今。まぶたの裏に甦ってきた。その映像を追い払うように、彼は壁に頭を打ち続けた。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわがちあう。そのために私はいるのだから)「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」「私はそういわなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいといっているようにユダにもなすがいいといったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」そのとき彼は踏み絵に血と埃でよごれた足をおろした5本の足首は愛する者の顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情をキチジローに説明することはできなかった。
『沈黙』遠藤周作
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