加藤のメモ的日記
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1635年に、ローまでルビノ神父を中心として4人の司祭たちが集まった。この人たちはフェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱するために、どんなことがあっても迫害下の日本にたどり着き、潜伏布教を行なう計画を立てた司祭たちであった。この一見、無謀な場な企ては最初は司祭当局の賛意を得なかった。彼らの熱意や布教精神はわかっても、これ以上、危険極まる異教徒の国に司祭たちを送り込むことは上司として直ちに許すべきことではない。しかし聖フランシスコ・ザビエル以来、東洋で最も良き種のまかれた日本で、統率者を失い、次第に挫けだしている信徒たちを見捨てることも一方ではできない。
のみならず当時ヨーロッパ人の目から見れば世界の果てともいうべき小国でフェレイラが転宗させられたという事実は、単なる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ全体の信仰と思想の屈辱的な敗北のように彼らには思われた。こういう体験が価値を占めて、幾多の曲折を経たのちルビノ神父と4人の司祭の渡航は許可された。このほかポルトガルでも、この一団とは別な理由から3人の若い司祭が同じような日本潜伏を企てていた。彼らはカムボリードの古い修道院で、かって神学生の教育にあたったフェレイラ氏の学生だった人たちである。
ロドリゴらの3人には、自分たちの恩師だったフェレイラが華々しい殉教を遂げたのならば兎も角、異教徒の前に犬のように屈服したとはどうしても信じられなかった。そしてこの若い彼らの気持ちはとりもなおさずポルトガル聖職者の共通した感情でもあった。3人は日本に渡り、ことの真相をこの目で突き止めようと考えたのである。ここでも上司はイタリアにおけると同様、最初は首を縦には振らなかったがやがてその熱情に負け、ついに日本への危険な布教を認めることにした。これは16937年のことである。
3人の若い司祭たちはただちに長途の旅行の準備に取りかかった。当時ポルトガルの宣教師が東洋に行くためには、まずリスボンからインドに向かうインド艦隊に同乗するのが普通であった。当時インド艦隊の出発はリスボンを賑わせる最大の行事の一つだった。今では文字通り地の果てと思われた東洋の、しかも最端にある日本が、今、3人には鮮やかな形を帯びて浮かび上がった。地図をひもとくとき、アメリカの向こうにポルトガル領の本インドがあり、その先々の島とアジアの国々が散らばっている。そして日本はまるで幼虫のような形をして、その東端に小さく描かれている。
そこまでたどり着くには、まずインドのゴアにたどり着き。その後さらに長期の歳月にわたり多くの海を渡っていかねばならないのである。なぜなら聖フランシスコ・ザビエル以来、ゴアは、東洋布教の足がかりともいうべき町だったからである。二つの聖ボウロ神学院は東洋の各地から留学してきた神学生と共に、布教を志すヨーロッパの司祭が各国の事情を知り、それぞれの国に向かう便船を半年も一年も待つ場所であった。
3人はまた手を尽くして彼らが知り得る限りの日本の状況について調べた。幸いこの点についてはルイス・フロイス以来、数多くのポルトガル宣教師たちが日本から情報を送ってきていた。それによると新しい三代将軍家光は、彼の祖父や父以上に過酷な弾圧政策を布いているということだった。とくに長崎では1629年以来、タケナカ・ウネメとよぶ奉行が暴虐非道、人間にあるまじき拷問を囚人たちに加え、熱湯のたぎる温泉に囚人たちを漬けて、棄教と転宗を迫り、その犠牲者の数は日に6,70人をくだらぬ時もあるという話だった。この報告はフェレイラ師自身も本国にもたらしているから確実に違いない。いずれにしろ、自分たちが長い辛苦の旅を続けた後にたどり着く運命は旅以上に過酷なものであることを彼らは初めから覚悟しなければならなかった。
『沈黙』遠藤周作
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