加藤のメモ的日記
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2014年01月02日(木) ノルウェイの森 

「それは本当に、本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女は時々そんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもどれがどこにあるのかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」彼女はそういうとツィードの上着のポケットに両手を突っ込んだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。

「でもそれじゃ危なくってしようがないだろう?」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれがどこにあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
「どうしようもないでしょうね。ひゅぅぅぅぅ、ポン、それでおしまいだもの」
「そういうのは実際には起こらないの?」
「ときどき起こるの。2年か3年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ探しても見つからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っこんたんだって」
「あまりよい死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。

「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて、そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」

「考えただけでも身の毛がよだつな」と僕は言った。「誰かがみつけて囲いを作るべきだよ」
「でも誰にその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」
「離れないよ」

直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないのよ。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」
「絶対に?」
「絶対に」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。
そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私はすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」

「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ本気で言ってるの?」
「もちろん本気だよ」

直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方では真っ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背伸びをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸が詰ってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。

「ありがとう」と直子は言った。
「どういたしまして」と僕は言った。
「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」
「どうして?」

「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは―」と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口にはさまずそのとなりを黙って歩いた。「それは正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。

「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。
「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねぇ、もしよ、私があなたと結婚するとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねぇ、そんなの対等じゃないんじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう?そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」

「これが一生つづくわけではないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。「いつか終わる。終わったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねぇ、もっと肩の力を抜きなよ。肩に力が入っているから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ」

「どうしてそんなことを言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩の力を抜けば体が軽くなることぐらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったってなんの役にも立たないのよ。ねぇ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって―どこかに吹き飛ばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」

僕は黙っていた。

「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねぇ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」

我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終わりに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でぱりぱりという音を立てた。僕と直子はまるで捜しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。

「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度が首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」「たぶん僕は君のことをまだ本当に理解していないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭のいい人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」

僕らはそこで立ち止まって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手を突っ込んで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。

「ねぇワタナベ君、私のこと好き?」
「もちろん」と僕は答えた。
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
「みっつ聞くよ」

直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝しているんだということをわかってほしいの。とても嬉しいし、とても救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」

「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。

彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の鳴き声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛り上がったところを上がり、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。ぼくはその二、三歩あとをついて歩いた。

「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」


『ノルウェイの森』�紂‖湿綵媼�




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