加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will


2011年04月09日(土) チェルノブイリの今

いまだに立ち入りを制限される半径30�匏�内

チェルノブイリ原子力発電所で4号炉が爆発した‘86年4月26日。人類が決して住めない土地が地球上に生まれた。4号炉はその日、原子炉実験中に制御不能に陥り、炉心融解(メルトダウン)を起こし、爆発へと至る。爆発によって拡散した核燃料は約30トンに及び、広島に投下された原子爆弾の400発分以上ともいわれる放射性物質が世界中にまき散らされた。

しかし、当時のソ連政府は、機密漏洩と住民のパニックを恐れ、その事実を公表せず、80万人もの労働者を動員して、4号炉を「石棺」と呼ばれるコンクリート壁で封じ込めた。この未曽有の大惨事は、あとに定められた国際原子力事象評価尺度(INES)において、最高危険度を表すレベル7に位置づけられている。そして文字通り史上最悪の原発事故から25年を迎えた現在、チェルノブイリ原子力発電所の周囲には、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの3国を合わせ約4800㎢といわれる制限区域が広がっている。

事故直後に住民が強制退去となった、原発から半径30�匏�内の地域は「ゾーン」と呼ばれる。‘10年12月21日にウクライナ政府によって、立ち入り制限は一部解除されたが、境界線上には多くの検問所が置かれたままだ。
日本政府は現在、事故を起こした福島第一原発の半径20〜30km圏内の住民に対して自主避難を呼びかけている。もちろん「自主避難」と「強制退去」の違いは大きいだろう。背景の異なる2つの事故を単純に比べることは難しい、それでもチェルノブイリの30�匏�内、「ゾーン」が今もなお「聞こえてくるのは鳥の声と枝葉のすれる音だけ」だという事実は、今後、福島原発周辺の地域が迎えるかもしれない最悪の事態を想定するヒントにはなるはずだ。

ちなみにこれらの土地で再び安全に人間が生活するには、数100年の時間が必要だと予測する学者もいる。カイ・サワベ氏はチェルノブイリの南東100�劼飽銘屬垢襯Ε�ライナの首都キエフから北上し「ゾーン」との境界を目指した。原発まで50〜40キロメートルと近づいたあたりから人の住む集落がまばらとなり、屋根の落ちくぼんだ家や廃墟と化した建物が目立つようになる。さらに車を走らせると、それ以上の進行を妨げるようにバリケードが現れた。

「道の上に倒壊した鉄塔などが横たわり、30�匏�内まで近づいたことがわかる。境界を超えるには政府が発行する許可証が必要なので、検問所には警察が常駐しています。ただし彼らが着ているのは普通の制服。防護服はもちろん、マスクも手袋も着用していません」(サワベ氏)
実は「ソーン」内部での防護服着用は義務付けられていない。許可証も手続きさえ踏めば取得はさほど難しくないため、政府関係者や原発従事者だけではなく、研究者や観光客など出入りは意外と多い。しかし、一歩30�匏�内に足を踏み入れると、目に入る光景からそこが死んだ街であることが如実に伝わってくる。

倒壊寸前の民家や無人の集合住宅、市民プールや病院など、廃墟と化した建物が並ぶ。当然、一部を除いて電気や水道、公共交通機関などのインフラはまったく機能していない。事故以前、原発の半径30km圏内には80近い村や街があった。出稼ぎ労働者や期間労働者も含め、13万5000人もの住民が強制退去させられた。

カワベ氏が続ける。「井戸から伸びる水道管は、壊されたり蛇口が潰されたりして使えないようにされていました。当時の生活が感じられる分、誰もいないことの衝撃が大きい」チェルノブイリの原発の従業員たちが住む町、ブリチャビ市の住民に避難が布告されたのは、事故発生の翌日だった。‘86年4月27日の昼ごろ、同市では次のようなラジオ放送が流れたという。「身分証明書を携帯し、必要なものと3日分の食料を持参してください」避難民たちは、「3日分の食料」というからには3日離れれば、また我が家に戻ってこられると考えていた。しかし実際に彼らが家に戻れたのは数ヵ月後。それも再びそこで生活するためではなく、防護服に身を包み、貴重品を運び出して、慣れ親しんだ街に永遠の別れを告げるためだった。

解体までに100年以上かかる

事故から25年経った今でも、この地で人が生活できないとされるのは、空気中の放射性物質が減少しても、セシウムやストロンチウムなどが水や土壌に蓄積されているからだ。事故後、セシウムによって㎢あたり1キュリー以上汚染された農耕地は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3国合わせて約440万haもの土地が利用不能となってしまった。

ウクライナ政府は、事故直後から‘90年代を通して、除染や汚染された農作物を摂取させないための対策を積極的に講じた。しかし‘00年を境に、対策費は削減され続け、‘07年以降、事実上ゼロになってしまっている。セシウムの半減期(放射能の強さが半数以上に減少する期間)は30年といわれているので、汚染区域は行政から見放された格好だ。

本来は居住が禁じられている「ゾーン」内に、現在も故郷から離れることなく、そこで生活する人たちがいる。「70歳くらいのおばあちゃんが、原発から10�劼販イ譴討い覆じ鼎ぬ渦箸法▲棔璽ぅ侫譽鵐匹醗貮い慮い醗貊錣吠襪蕕靴討い燭鵑任�」電機も使えないし食料品も手に入らないから、生活物資を手に入れるためには、彼女はいちいち立ち入り禁止区域の外の街まで行かなくてはなりません」

老女は‘86年当時の強制撤去の際、一度は居を移したが、親族も知人もいない汚染区域に再び戻ってきた。「居住禁止」といいながら、ウクライナの役人は見て見ぬふりという。30kmゾーンの境界線上、放射線汚染区域を通る道路の終点に、テレムチという村がある。そこの住民の一部も、‘86年当時、避難を拒否している。ここは実際、汚染の少ない地域にあり、首都キエフの大通りよりも大気中の放射線量は低い。しかし仕事もなく、補助金なども支給されない「ゾーン」の住民は、生活に窮することがほとんどだ。その結果、自ら育て採集した食物を食べることになる。当然汚染された植物や卵、魚などを口にすれば、内部被ばくを起こす原因となる。

それでも彼らは「ゾーン」に留まる。理由は何か。「老い先短い身で放射能に怯えていられないわ。不便でも生まれ育った街だから、それに家賃がかからないもの」老女がそう語るように、一度離れた我が家に戻ってくる「ゾーン」出身者は決して少なくない。

チェルノブイリ原発が建てられたブリビチャ市をはじめ立ち入り制限区の多くは、そもそも緑に恵まれた豊かな土地だった。それが強制退去のために、住民たちは農業に適さないステップ地帯の村やキエフ周辺に立てられた簡易住宅に、他人の家族とともに放り込まれてしまう。避難先の住民の誰もが歓迎してくれたわけではない。少ない仕事を奪い合うライバルと見なされ、放射能に汚染された地から来たことを理由に、不当な扱いを受けることもあった。

このように被ばくへの恐怖より精神的なダメージが勝ることは、決して珍しいことではない。そして今後、日本でも同様の事態が起きないとは言い切れないのだ。昨年12月の立ち入り制限の緩和により、観光客らがチェルノブイリ原発近くを見学することが可能になり、ドイツなどのヨーロッパ諸国では、原発訪問ツアーがすでに人気を集め始めている。しかし、これでチェルノブイリが完全に安全な場所と約束されたわけではない。総被ばく者数は9000人以上、いまだ被ばく患者は増えていると主張する専門家も存在する。

先月28日には、チェルノブイリ原発の管理当局のボブロ第一副局長が、「解体までに100年以上、毎年約1億2500万ドル(約102億円)が必要となる」と述べた。石棺と呼ばれるコンクリート壁の老朽化が問題となり、現地では労働者が放射線被ばくの危険にされされながら、その補修に追われている。原発事故の傷跡は深く長い。その系譜に、福島原発と周辺被爆地はすでに連なってしまった。この3月に、運転開始40周年を迎えるはずだった福島第一原子力発電所。その歴史はチェルノブイリ同様、事故以降がより印象深く忘れられないものとなるだろう。


『週刊現代』4/16


加藤  |MAIL