加藤のメモ的日記
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2010年11月15日(月) 毛沢東の死

私が初めて華国鋒に会ったのは、1959年、「大躍進」の最中で、生地の湖南省沙譚県を訪れる毛主席に同行した際である。当時、華国鋒は主席の生地も含む湖南省の党委員会第一書記で、毛沢東は彼がいたく気に入った。2年後、大躍進が国を経済的な破綻に追い込んでいたのに、地方の党官僚が食糧生産は増加していると嘘を言い続けた際でさえ、華国鋒はこう断言してはばからない勇気があった。「人民は体重を失い、土地まで痩せてきている。どうして食料の増産などといえるだろうか」

その時毛主席は私に「華国鋒のように真実を語るものは一人もいない」と言ったものだった。華国鋒が党、政府の要職についたのは1976年4月でまだ半年とたっていなかった。主席の死が近づくにつれ展開し始めた権力闘争における素早い勝利だった。同年1月、毛沢東はガンで死んだ周恩来の後任に華国鋒を首相代行として指名する。

4月上旬、数万の民衆が天安門広場に集まり、周恩来の死を追悼すると同時に毛沢東夫人の江青、その仲間である上海出身の張春橋、桃文元、王洪文ら極左派リーダーたちの政策に抗議すると、反極左派のデモは「反革命的」と宣言された。毛主席は極左派グループをなだめるために、騒ぎを助長させたとして弔辞を読んだ穏健派の��小平副主席を追放した。

しかし常に人事バランスを忘れない毛主席は、党中央委員会第一副主席に華国鋒をを指名することで極左派を失望させる。こうして華国鋒は政府の最高責任者、また、毛沢東が選んだ党主席の後継者として追認されたのであった。私はうれしかったし、毛はまさに間違いのない人物を党、政府の最高指導者に選んだと思った。現に江青の料理長でさえ喜び、主席はやっと賢い決断を下したと言った。所が極左派は彼を右よりと非難するようになった。

その結果、華国鋒はこれ以上やっていけないと決意した。4月30日、彼が毛主席のもとを訪れて、こんないわれなき攻撃にさらされてはとても責務を果たせないと訴えた際、私は主席邸のプールサイドにいた。会談後、華国鋒は私に主席とのやりとりを打ち明けたばかりでなく、毛沢東の直筆指示まで見せてくれた。

3点ほどしたためてあった。「君がやってくれれば、私は安心だ」となぐり書きされていた。「決定に即して行動せよ」「余計な心配をするな。気楽にやるがいい」。その時分にはもう、毛沢東の話し方はろれつが回らず世話係の張玉鳳に解読してもらうか、筆談でしか意志の疎通がはかれなかったのである。華国鋒はその直筆を政治局の面々に見せた。毛主席のお墨付きは、後継者としての華国鋒の地位を合法化する証文となったのである。

……

9月7日、毛沢東が重態におちいり、死期は近いと医師団が判断した時、江青はやっと私たちに会いにきた。部屋の中を歩き回って医師や看護婦と一人ずつ握手を交わし、めいめいに同じ挨拶を繰り返した。「これであなたもご満悦でしょう」。江青は夫の死後に権力を握り、その指導下に入ることを私たちが喜ぶだろうと、信じ切っているかのように見えた。

はじめて江青に会った他の医師たちは、主席夫人の無神経さにあっけにとられてしまった。「なにも不思議なことじゃないよ」と、江東興は私に言った。「江青は確信しているんだ、究極の権力を手に入れるのを邪魔だてしているのは自分の夫だけだ、とね」。彼女は毛が死ぬのを待っていたのである。権力闘争は主席が死の床にあった時からも弾みがつき、体が冷たくならないうちから激化していったのだ。

江青は「四人組」として知られた指導者であり、上海系の張春橋、王洪文、套文言、そして毛主席の甥・毛遠新らに支持された。張春橋は上海を基盤にした左派の理論化であり、文化大革命の指導的な提唱者になった。「社会主義の雑草は資本主義の小麦よりずっとましだ」というのが口癖だった。江青が感情を爆発させた今、張春橋は両手を後ろに組み、顔を伏せたままそこいらを行ったり来たりしはじめた。



『毛沢東の私生活』


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