加藤のメモ的日記
DiaryINDEXpastwill


2008年12月27日(土) 亡き子アルバート

アメリカでの二十数年の結婚の間、私は五回妊娠した。二度中絶し、長女メアリー、長男、ウォルターの次に生まれたのが、次男のアルバートだった。アルバートは物理学者だった二世の夫の希望で、アルバートアインシュタインに因んで命名した。

前回同様、出産後全身麻酔から回復するべく特別室で、徐々に意識を取り戻しつつあった私の耳に、突然周囲の看護婦の英語が飛び込んできた。「この患者さんのベービーはひどい障害で、亡くなったのよ」この患者さんというのはどうやら私のことらしいのである。(私であるはずがない)胸の中で叫びつつ私は現実の世界へ完全に戻った。が、夫や医師から聞かされた会話は、私の生んだ子は、母親が見てはならないほどの顔面障害と、致命的な脳障害があって、生後数時間で死亡したという。

「ミセス・オカダは、原爆のとき広島にいましたか?」というのが産婦人科医の質問であった。もとより私は広島や長崎へ行ったことはなかった。アルバートの死は、ことさら哀しかった。なぜかというと、私たち夫婦の不和が性格的不一致から修復しがたい段階にきていたのに、彼が生まれてこなければならなかったからだった。

そして小さいベービーは、一度として母に抱かれることもなく、生涯父と母の重荷になることを遠慮するかのように去っていったのだった。「ごめんなさい、アルバート。たとえドクターに止められたって、あなたを抱いてあげればよかったのに。本当にごめんなさいね」

あの時、私は動転のあまり、夫と医師の制止通りにした。その後、医師は、私が他のベービーの声や姿に接しないように、別の病棟に移した。アメリカの医学界はとても患者心理を重要視する。

でも、今初めて告白できるけれど、アルバートの天国行きを私は少しも辛く思うどころか、神様が彼と私たち一家四人を悲劇から救ってくださったものと解釈した。「本当はああいうお子さんは流産に終わるんですよ。たぶん、お母さんが健康なので、正常に造られていない胎児を育て続けてしまったのでしょう」という医師の言葉が、私の思いを一部軽くしてくれた。息子の遺体はその病院に献体した。

やがて帰宅した私は、彼のためにい用意したベービー用具のある部屋に、張って張って仕方のないおっぱいを抱えるようにして、入っていって泣き崩れた。すでにおっぱいが出るのを止める薬を打ってもらっているはずなのに、亡き子を想うためか、溢れるものはブラウスの胸をびっしょりにしていた。

このマンションに移ってから、不思議と見たことのないアルバートの面影が、ときとして浮かんでくるようになった。私に似て色は白いほうで、丸顔の子のような気がしたりする。



『たった一人の老い支度』


加藤  |MAIL