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2005年10月23日(日)
吉備の製鉄あるいは日本の平和思想

山手村公民館で製鉄遺跡第一人者の光永真一氏の「吉備の製鉄」についての講演があったのでいそいそといってきた。

一般の人はほとんどこういう問題に興味ない人が多いのではあるが、私は「日本の平和思想」を決める決定的な時代だったと思っています。分かりにくいかもしれませんが、興味を持っていただけたら幸いです。

そして「倭国大乱」が鉄を巡る覇権の争いであったとしてなら、この吉備の(原材料からつくる)製鉄について考えることはとても重要なことです。

現在日本で見つかっている最古の製鉄遺跡は総社の千引カナクロ谷遺跡(6C後半)です。それどころか5Cの岡山市の佐古田堂山古墳、同じく5Cの柵原の月の輪古墳からは製鉄に使われたとき出てくる鉄滓(鍛冶のときに出てくる鉄滓と比べて錆が付いていない滓)が出ているので、5C段階(古墳時代最盛期)で吉備地方において日本列島で先駆けて製鉄がなされていた可能性は非常に高い。それは何を意味するか。

「まがねふく」の枕詞にあるようにやはり吉備が製鉄の最先進地帯なのであった。しかし、それでは倭国大乱の説明にはならない。弥生時代に製鉄の可能性はないのか。私はいい機会なので、講師に執拗に食い下がった。「朝鮮半島では紀元前から製鉄を始めています。100年かけてその技術を輸入したというのなら分かる。けれども製鉄は当時もっとも必要だった技術のはず。それが500〜600年も輸入できていないということがありえるでしょうか。(ちなみに稲の技術は50年で西日本から東北まで伝わっている、という説もある)今日学んだ初期の製鉄はそんなに難しい技術ではないはず、と私は思う。その見解を聞きたい。」講師は考古学者らしく、「遺跡で発見されていない以上はなんともいえない」といいながら、「鉄の技術は重要なのでその技術を教えること自体が重要な外交問題になっていたということは考えられます。簡単に伝わらなかったでしょう。」「はたからみて簡単に分かるような技術ではありません。上から見て形はつくれるかもしれないが、鉄精錬の理屈自体思いも付かないでしょうし、地下の構造に関しては素人では絶対に分からなかったでしょう。」(写真の左図参照。ちなみに右の固まりは鉄滓)確かにそうかもしれない。けれどもそれでも、これだけ長い間輸入できなかったとはやはり思えない。今回の最大の収穫は弥生時代吉備の製鉄の可能性について製鉄の第一人者が明確な反対の意を表さなかったことです。素人の私にとってはそれだけで充分。倭国大乱は、もしかしたらたった一人の鉄の秘密を握る人物を巡っての物語なのかもしれない。いろいろと波乱万丈があって、その人物は死に、技術だけが吉備に残されたとしたなら……(^^;)

その他、長年の疑問もいくつか解けた。吉備の製鉄の初期は砂鉄ではなく鉄鉱石を使っているのだが、岡山県は吉備の地方に点々と鉄鉱石が取れる場所はあったらしい。一番の産地は県北である。鉄鉱石の採石場が見つかっているかというと、見つかっていないらしい。また、当時の朝鮮半島の製鉄もやはり鉄鉱石から作っていた。ただ、まだ吉備の製鉄遺跡と同じ形の遺跡は見つかってはいないらしい。ふいごの仕組みは図にある通りではあるが、あれ以上は分からないらしい。なぜなら木でできているので跡形も残っていないからである。たぶん手押しのふいごではなかったか、というのが講師の意見であった。


戦争の危機を技術の交流で切り抜けた」「大和東遷による連合政権樹立」という私の「説」は更に補強されたのでした(^^;)