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2005年08月27日(土) ■ |
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門田遺跡・邑久郷土資料館をたずねる |
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岡山県下のすべての遺跡はまだ訪ねてはいない。(<あたりまえ)しかし、考古学の博 物館なら主なものを行っていると思っていたが、今回瀬戸内市の資料館を訪ねて、ま だまだ注目すべき博物館は在るのだと思い知った。
『日本全国見学できる古代遺跡100』(文春新書)を参考に瀬戸内市(旧邑久町)に ある門田貝塚と郷土資料館を訪ねた。
門田貝塚は遺跡公園になっている。弥生時代前期から鎌倉時代に及ぶ集落遺跡。ここ から出た弥生時代前期後半の土器は『門田式』と命名され、瀬戸内沿岸地方の時代を 測定する場合の指標となっている。公園には弥生後期の竪穴住居を二棟復元してい る。カヤぶき屋根の立派な住居だ。少しきれい過ぎるのもどうかと思うが、横壁をコ ンクリートで固めているのは興ざめ。又、住居の扉が閉ざされていて見学出来るよう になっていない。学問的には非常に怪しい復元住居では在る。
そのあと旧邑久町役場のすぐそばに在る『郷土資料館』に行く。鉄筋三階立ての小学 校をそのまま資料館に使っていて、考古学資料は2階の4部屋を使っている。まず びっくりするのはその考古資料の数の多さである。門田遺跡だけではなく、旧石器か ら中世まで満遍なく数多くの遺物が展示されていて、展示している数の多さだけなら 県立博物館より多いだろう。しかも、一応すべての展示物に説明が付いている。ここ の展示物のほとんどは郷土史家の長瀬薫氏の個人寄贈品らしい。彼は戦前から邑久町 の遺跡の遺物を収拾して廻り、県内で初めて考古博物館『邑久考古館』(S11)を開 いていたらしい。
しかも私の初めて見るような考古資料が多く、びっくりした。熊山田遺跡(弥生)の人 形型土製品の表情の豊かさ、水落古墳(7C)の家型陶棺の巧みさ、高砂山古墳から出 土した内行花文鏡。堂免遺跡(弥生前期)の円形周溝墓。どうしてこの博物館が今まで 注目されていなかったのか。
注目すべき遺物があった。国城遺跡(弥生中期後葉)出土といわれている器台形土器。 この大きさが50〜60cmくらいあって、特殊器台といわれても通用する大きさで あり、しかも脚部に竜?の抽象化した線刻絵画があるのである。これは祭祀用の器台 だと考えるほうが自然ではないか。ところが、私は特殊器台が邑久地方から生まれた という説を聞いたことが無い。しかも門田遺跡の土器に弥生時代重孤紋の土器があ る。これは特殊器台の直孤紋とは関係無いのだろうか。
私がこのことを注目するのは訳がある。吉備地方から始まった特殊器台はその祭祀方 法がやがてそのまま大和政権に受け継がれる。(ここまでは現代考古学の定説)それは 吉備の主要メンバーが大和に移った証拠だという説が今大きくなっている。(近藤義 郎『前方後円墳と吉備・大和』)つまり、特殊器台の源が吉備にあったのではなく、 二つ河を隔てた吉井川東側にあったかどうかというのは、日本史の内容を決定付ける 重要なファクターなのである。
このことを研究した書物がないか、隣接の図書館に行くと、資料館の村上氏を紹介し てくれた。一階の資料編さん室の事務所を訪ねてみた。「うーむ。確かに近藤先生は ここの資料のことには言及していませんね。」「僕はとても重要なことだと思うので すが、誰もこのことに言及していないのですか。」『門田遺跡の報告書は出ているの ですが、そのほかの遺跡の報告書は無いんですよ。長瀬氏の個人収拾の遺物ですか ら、そのことが関係しているのかもしれません。」『だとすると弥生時代中期といっ てもはっきり認められているわけではないんですね。」「そうです。実は今年末初め て邑久町史で考古編が出るのですが、そのとき少しは言及されるかもしれませ ん。』『分かりました。そのとき注目してみます。」私はここの遺物が注目されてい ない理由が分かった気がした。近藤義郎氏は特にそうだが、考古学は確かなことしか 書くことはしない。だから資料批判が出来ていない遺物は『無視』されているのであ る。しかし、それで無視するような事柄のようには私は思えない。もしこの遺物の時 代と場所が正しかったなら、そしてもしこの遺物が特殊器台の直前の姿だったとした ら、いったい何が理由で彼らの主体は吉備に移ったのかということが問われなければ ならない。
新たな謎が生まれたお盆休みの遺跡めぐりでした。
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