日々あんだら
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「日本百名山」という言葉がある。 ただの言葉である。
昔、一人の山好きのおっちゃんがいた。 そのおっちゃんが、生涯に500座登ったのか1000座登ったのかは知らないが、(まさか200〜300ということはないだろう) 自分が登った山の中から、自分の好きな山を100座選んだ。 まあ、そこまではありそうな話だ。
ただ、特殊だったのは、このおっちゃんが文筆家だったことである。 そして彼はその自分が好きな100座を「日本百名山」と名付けて発表してしまった。 これが「日本百名山」である。 つまりは、一人の人間の独断で選ばれた山々である。 それが、今では日本を代表する山々、という位置づけになっている。 (さらに他の人たちが名付けた「日本300名山」というのもあるらしい。そこまで行くと笑うしかない)
これが例えば「私の好きな100の山」だったら、今のような影響力は無かっただろう。 知る人ぞ知る、という感じで、一部の人がその著作を読み、参考にするだけだったろう。
それが、いかにも「日本を代表する山」と言わんばかりの看板を掲げてしまったために、 後世の山業界に大きな影響を与えてしまったのだ。 (逆に言うと、名付け方ひとつで世にそれだけの影響力を発揮してしまったのだから、さすがは文筆家である)
彼の百名山選定基準を見てみると、(by wiki) ・原則として標高1,500 m以上の山 ・山の品格 - 人には人格があるように、山には『山格』のようなものがあるとし、誰が見ても立派な山だと感嘆する山であること ・山の歴史 - 昔から人間との関わりが深く、崇拝され山頂に祠が祀られている山であるというような山の歴史 ・個性のある山 - 芸術作品と同様に、山容・現象・伝統など他には無いような顕著な個性をもっていること ・そして「本人が登頂した山であること」が、絶対条件となっている。
2・3・4番目の基準はまだわかる。(その判断が個人の独断によるものだということは差し引くが) でも、5つ目はなんやねん!!アンタが登ってない山は名山ちゃうんかい!!と問いたい。 そして1つ目も納得できない。低い山には低い山なりの良さがあるのだ。 (筑波山や開聞岳のような1000mに満たない山も多少は入っているけど)
それと百名山の分布を見るとわかるんだけど、明らかに西日本が少ない。 これは、西日本に高い山が少ないというのもあるだろうけど、僕の推測で言えば、 ただ単に本人の行動範囲が日本アルプス〜東日本に偏ってただけではないのか? さらに、「日本百名山」を出版した後に登った山で、「こっちを入れとけばよかった!」って山もあったらしい。
そんなわけで、言い切ってしまえば、極めてあやふやな基準で選ばれた100座、なのである。
そんな百名山は今、どの山も雑誌やネットで日本百名山だと紹介されている。 「日本百名山」の看板が立っている山もたくさんある。 そして日本中に、百名山全登頂を目指している山好きがたくさんいる。 僕も、山で知らない人と話していると、それなりの確率で「百名山を目指しているんです」という人に出会う。
まあ、何事も、他人に迷惑をかけない限り、どう楽しむかは個人の自由なので面と向かってはなにも言わない。 でも、いつも心の中では「それがどうした?」と思っている。 一人のおっちゃんが自分の経験から独断で選んだ100座に登ることが、そんなに素晴らしいことか?
そして、閉口するのは、そういう人がかなりの高確率で次にこう言うことである。 「あなたはいくつ登りましたか?」 …誰もが、百名山制覇を目指してると思わないで欲しい。 4座しか登ってませんけど、なにか? (当然、結果としての4座であって、百名山だから登ったわけではない)
もちろん、百名山に選ばれている山に罪はない。そして、素晴らしい山もたくさんあるだろう。 4座しか登ってないけど、例えば筑波山は「どうせ高尾山の次にステップアップで登る、初心者向けの山やろ?」と舐めてたら 女体山の山頂に着いた時に土下座して謝りたくなった。(山に) なるほど、この山を百名山に選んだ理由は良くわかる。
でも、例えば丹沢山も百名山だけど、個人的には隣の塔ノ岳の方が好きだし、 もっと言うとさらに隣の鍋割山の方がより好きだ。 奥の蛭が岳や檜洞丸はまだなので、もしかしたらそっちをもっと好きになる可能性もある。
結局、他人が決めた「名山」は、参考にはなるけど絶対ではないのだ。 なのに、百名山を目標にする人がこんなに多い現状には疑問を抱かざるを得ない。
あと、僕が百名山制覇を目指さない大きな理由がもう一つある。 僕の性格上、それを目指し始めたら、他の山に目を向けなくなる、と確信しているからだ。 そして、そうなってしまっている人が、日本中にきっとたくさんいると思う。
こないだ地元の山で会ったご夫婦も百名山制覇を目指していてもう80座くらい登った、と言っていた。 「それはすごいですねー」と答えたのは、百名山制覇が近付いていることに対してではなく、 単に80座以上の山に登っている、という事実に対してである。(僕は多分20座くらいだ) 「普段はどこに登ってるんですか?」と聞かれて、「奥多摩とか丹沢あたりです」と答えたら、「丹沢なら蛭が岳に登りましたよ」と言う。 裏から、蛭が岳だけ登って帰って来たらしい。 「あれ?蛭って百名山でしたっけ?隣の丹沢山じゃないんでしたっけ?」と疑問を口にしたんだけど、 「蛭が百名山です。あの辺りで一番高い山ですよね」と断言されたので自信が無くなって引き下がった。 でも後で調べてみたら、やっぱり丹沢山が百名山で、蛭が岳は百名山ではなかった。(笑) あのご夫婦も、せっかくそこまで行ったんやから、足を伸ばして隣の丹沢山まで行ってれば良かったのに。 塔ノ岳の展望や、馬鹿尾根の長い階段も、絶対思い出になる。 ていうか、小豆島からわざわざそこまで行って、鍋割山の鍋焼きうどんを食べずに帰るなんてもったいなさすぎる!!
なるほど、「日本百名山」を参考にするのは、山を知り楽しむための一つの手段ではあるだろう。 しかし、「日本百名山」に囚われすぎると、山の多様な楽しみ方を阻害してしまうような気がするのだ。 「日本百名山」という言葉には、そういう功罪どちらの面もあると思う。 (たかだか20程度しか登ってないやつがなにを偉そうに、って自分でも思うけど。笑)
百名山はどの山もそれなり以上に素晴らしい山なんでしょう。 でも、その他にも素晴らしい山はたくさんあるのだ。 そっちに目を向けないなんて、もったいないよね?
他人の決めた「百名山」を目標にするより、「自分なりの百名山」を見つける方がずっと楽しそうだしかっこいい、と思うんだけど、 どうだろう?
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