日々あんだら
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2009年05月19日(火) 不完全で曖昧だからこそ




「言葉って限定的で不完全なものなんや」
そう言ったのは高校からの友人Mだ。
あれは高3か、もしかしたら浪人の頃だったかもしれない。


  例えば林檎やったら、赤く熟した林檎もあれば、まだ青い林檎もある。
  つやつやした林檎も虫食いのある林檎も葉っぱのついた林檎もあるやん?
  でも『林檎』って言葉を使った途端に、赤く熟したのも、青いのも、つやつやしたのも、虫食いのも、
  全部ひとまとめになってしまう。
  聞いた人の頭の中にある『林檎』のイメージに限定されてしまうんや。


一言一句正確ではないと思うけど、彼はこのようなことを言ったと記憶している。
その時の僕にはイマイチ理解できず「ふぅ〜ん」って相槌を打っただけだったと思う。
(もしくはわかったふりをしてうなずいたか。笑)
でもきちんと理解はできなかったものの、彼のその考え方はとても印象的で、深く記憶に残ったのだった。

その意味を自分なりに理解できるようになったのは、20代後半の頃。
多分あんだら日記を書くようになって、言葉を意図して使うようになってからだ。

本当に言葉って限定的だ。
『林檎』と言えば、どんな状態の林檎もひとまとめにされてしまう。
AくんがBちゃんを想う気持ちと、CくんがDちゃんを想う気持ちは絶対同じであるはずがないのに、
言葉にすると『好き』という同じ言葉になってしまう。

言葉とは、近似の性質を持ったものをひとくくりにしてグループ化してしまう道具だと言えるかもしれない。
(このことを理解できた時に、10代の頃からこんなことを考えていたMのすごさがわかったような気がする。
 でも絶対変だ。笑)



言葉は、人と人、集団と集団、世代と世代の意志疎通のためにはとても便利な道具だ。
言葉無しには、人類の文明の発達も文化の発展もなかったのは間違いない。

でも、言葉は曖昧で不明確で不安定だ。
Aくんが言う『好き』に込められた想いと、Bちゃんが受け取った『好き』は全く同じものには絶対ならない。
Aくんが言う『好き』であっても、昨日の『好き』と今日の『好き』は意味が微妙に違っているかもしれない。

そのため、人と人、集団と集団の間には誤解が生まれ、それが争いに発展することもある。
言葉で自分(たち)の真意を正確に相手に伝えるのは至難の業だ。
だからと言って、言葉を尽くして説明しようとすればするほど、自分の真意が伝わりにくくなったりもする。
(僕の書く文章が正にそれ。笑)



人間の能力は、言葉を使い始めて格段に衰えたはずだ。と言ったのもMだ。
自分の頭の中で考え事をしている時のことを思い出して欲しい。
言葉を使って考えているはずだ。
言葉が限定的なものである、という前提に立って言えば、
つまり、他人に伝える必要もないのに言葉を使って、自分自身を限定してしまっていることになる。
(吉本ばななの小説の一節が、同じような考えに基づいて書かれているような気がする)

言葉が生まれる前の人類は、もっと正確に物事を捉え、考えていたに違いない。
(ただし、その考えを他人に伝えることは今以上に難しかったと思うけど)
人類は言葉を手に入れることで、他人との意思疎通をある程度容易にした代わりに、
自分の能力を限定してしまったのではないか?
もし、人類が言葉を発明しないままあと何千年か何万年か経っていたら、
全く別の、自分の考えを過不足なく正確に伝える方法が生み出されていたかもしれない。



でも、もしそうだったとしたら、文学のようなものは生まれなかっただろう。
言葉が曖昧だからこそ、詩に余韻が生まれ、小説の行間を読むという行為があるのだ。
言葉が不完全だからこそ、想像力がそれを補完し、読む人がそれを楽しむことができるのだ。
文学が芸術たりえるのは、そこに想像力が働く余地があるからだし、
僕が映画やドラマより漫画、漫画より小説の方が好きなのも、
そちらの方が想像力が働く余地がより大きいからだ。





…というようなことは実は20代の後半頃からずっと思っていたんだけど、
今日、写真も同じなのかなぁ、とふと思った。

写真は、実際は三次元の世界を、二次元に限定して記録する。
写真は、連続する時間の中の何分の1秒かを記録する。(場合によっては数十秒や数分のこともあるけど)
写真は、光しか記録できない。音も、匂いも、味も、手触りも、写っている人の想いもそこには記録されない。

でも、だからこそ、見る人の想像力が働く余地がたくさん残っている。
二次元の写真に奥行きを感じることがある。
瞬間を捉えた写真の、その前後の場面が見えるような気がすることもある。
大きな笑い声が聞こえることも、おいしそうな匂いが漂ってくることも、風が吹いてくることもある。
写っている人どころか、撮った人の想いまでも感じることさえある。

そういう写真を見た時に、僕は「いい写真だな」って思う。
そしてそういう写真を撮りたいなと思うのだ。

別に、自分の写真を芸術だなんて思ってはいないんだけど。
でも、僕の写真を見た人がなにかを感じてくれれば、それはとても嬉しいことだ。




こんな長いわかりづらい文章に最後まで付き合ってくれてありがとうございます。
こんなけったいなことも考えてんねんで、ということで。たまにこういうのも書きたくなる。^^;

なお、この文章が非常に分かりづらいのは、言葉が不完全であるからというよりも、
僕の文章力が不完全だからです。
ごめんなさい。m(_ _)m


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