日々あんだら
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2006年12月08日(金) セイキ


(MINOLTA HIMATIC-E・ROKKOR40mmF1.7、EB3)


ここ数日、頭の片隅でずーっと考えていることがある。
「性器をモチーフとした作品は、是か非か」。
結構微妙な問題で、自分の頭の中の天秤も右に傾いたり左に傾いたりしている。
(誤解の無いように言っとくけど、僕がそういう写真を撮りたいわけじゃないですよ。^^;)


別に性器が淫猥で邪なものだと断じるつもりはない。
もちろんそのような側面もあるだろうが、「生命の象徴」という側面もあると思う。
また、人間の顔や手足や胸や腰や背中が芸術の表現となりうるのであれば、
性器だけがそうではないとは言えないだろう。
むしろ造形的にはおもしろい部分かもしれない。
(その気になれば性器だろうが排泄物だろうが死体だろうが、芸術作品にすることは可能だと思う。僕にはその発想も、それを可能にする腕やセンスもないですが…)

しかし、性器に関してはあからさまにすることに抵抗や嫌悪感を感じる人が、
世間一般の大多数であるというのは事実である。(性的な楽しみの場合は除いて)
性器をモチーフとして扱うのなら、その扱い方、表現の方法は極めて難しいと言える。

個人として、もしくは特定の趣味の仲間内で楽しむためならばどんなものでも構わないと思う。
しかし「作品」として多くの人の目にさらすものであるならば、それがどのように受け取られ、どのような感想を持たれるのかを考える必要があると思う。
確かに性器を使った作品にはインパクトがあるだろう。
でもインパクトのために性器を使うということは考えとして安易すぎると思うし(作品の製作に労力を尽くしたかどうかはまた別の問題)、それで嫌悪感を抱かせるようなものになるならば、やはりそれは邪道だと言わざるを得ない。
逆に、なにか表現したいことがあってそのモチーフとして性器を選ぶ、ということであれば有りかなとも思うけど、それならばその「表現したいもの」が相手に伝わらなければ作品として成り立たない。
それを見た人が嫌悪感しか抱かないようなものであるならば、その伝え方に問題があり、伝えたいものが相手に伝わっていないということだろう。(作者の力量不足)

誤解を招きそうなので1つ断っておくけれど、作品を作る時に見る人のことだけを考えて製作すべきと思っているわけではない。
もちろん製作者の意思や意図やセンスを前面に押し出さなくてはならない。
でも、見る人のことを考えずに自分のエゴだけで作ったものは作品ではないと思う。
そのあたりの微妙なバランスを取らないといいものは作れないと思うのだ。


一つ言えることは、ミケランジェロのダヴィデ像も性器をむき出しにしているが、あれを見て嫌悪感を感じる人はまずいないだろうということである。
かと言って見る人に媚びているわけではない。
性器を表現の手段とするのであれば、それくらいのレベルに達する覚悟が必要だと思う。
(まあ、ミケランジェロと比べるのは自分でもどうかと思うけど…)


「見た人に嫌悪感を抱かすのがこの作品の目的だ」という人がいたら、もうなにも言うことはありません。(笑)




と、えらそうなことを言ってますが、自分の写真は安易過ぎるとは思ってます。
見た目に楽しそうなもの、気持ちいいもの、きれいなものしか並べてないもんなぁ。
毒気が足りない、とは思う。


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