日々あんだら
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2006年04月01日(土) |
My old town |
(α-7D+AF50mmF1.4New、ISO400相当)
ずっと撮りたい場所があった。 大学生の4年間、そこに住み、そこでいろんな人に出会い、遊び、学び、笑い、泣いた町。 あのころは時間が無限にあると思っていた。 「いっそ死のうか」と思うような失恋を2回した。 昼も夜も関係なくて、そこにあるのはただ自分と仲間たちだけだった。 時々は腹が立って誘われても行かないこともあったけど、彼らと過ごす時間はとても楽しかった。
その町を撮りたいという思いは、2年前の夏に転勤で大阪に戻ってきた時からあった。 でも「いつでも行けるし」とか「時間がないし」とダラダラ過ごしている内に、行くことができなくなってしまった。
去年の夏、僕は大きな失恋をした。 あれほどショックを受け、あれほど悲しみ、あれほど苦しかった失恋は、僕の29年の人生の中で他にはない。
そのことで何人かの友達にはかなり迷惑をかけたし、気を使って遊びや飲み会に誘ってくれる友達もいた。 彼らには感謝してもしたりない。 でも、みんなとワイワイやっている時には薄められ霞んでいる苦しさも、 彼らと別れて帰りの電車に乗る頃には再び僕の中で大きくなっていく。
あの頃は1人の部屋に帰るのがとてもとても嫌だった。 帰ると、ベッドの上にうずくまり、横たわり、なにもせずにただその波が去るのを待っているだけだった。 眠れない夜がいくつもあったし、情けない話だが人当たりもきつくなっていたと思う。 でも自分で自分の気持ちを整理し、抑え、湧き上がってくる感情に対抗しなくてはならなかった。 どんなに苦しくても、ネット上では空元気を張った。 あの時期ほど、underlineの存在が疎ましかったことはない。 (今ではいい経験だったと思うけど)
そんな状態になったので、あの場所になどとても行けるわけがなかった。 そもそも、昔住んでいた町には感傷がつきまとう。 坂を下ってくる学生の中に、もちろん知った顔など1つもない。 母校に行っても、顔見知りの先生は1人もいなくなった。 僕の住んでいた部屋の窓には、見慣れない柄のカーテンがかかっているし、 徒歩1分のところに住んでいたMも、公園の向こうのマンションに住んでたHも、 隣の駅の川に向かう道筋に住んでいたTも、もちろんもういない。 コーヒー1杯で文庫本を読み終わるまで粘れたあの静かな喫茶店も、いつの間にか閉店してしまっている。
その頃の苦しみや悲しみと、そのような感傷が化学反応を起こしたらどんな鬱が襲って来るのか、 容易に想像できた。 それに、淋しさを紛らわすために写真を撮ることはできるけど、 そうした写真は他人が見てもどこか淋しさが漂ってしまう。 まして、本人が見返したらその頃の心情を思い出して嫌な気分になるだけだ。
なので、その場所を撮りに行くことはできなかった。
僕がその失恋から本当の意味で立ち直れたと思ったのはこの冬だ。 もう大丈夫だと思った時に一番最初に浮かんだのはあの町へ撮りに行こうか、ということだった。 それくらい行きたくて仕方なかった。 でもどうせなら、と思った。 どうせなら春まで待とうか、と。 僕があの町に暮らし始めた時期、そして僕があの町を去った時期になったら、 カメラを持ってあの町に行こう、と。
今日、まだ春とは言えないかもしれないけどカメラを1台だけぶら下げてあの町に行って来た。 駅の周辺は馴染みのお店がいくつか無くなって、新しいお店ができていた。 大学の構内は大幅に変わっていて、僕がいた頃の面影を探すのに苦労した。 でも当時の恋人といつもご飯を食べていた学食はまだ残っていた。 僕と同い年のボロアパートはあいかわらずボロボロで、 壁が薄いのでどこかの部屋から誰かの話し声が聞こえていた。 大家さんの車は10年前から変わらない緑色のセダンだったし、 いつもゴルフの素振りをしていた向かいの家のおじさんは、今日も変わらずクラブを振っていた。 行きつけのお店のお好み焼きは具の切り方が大きくなっていたけど、量と味と値段は変わっていなかった。 体調を崩してお店にはあまり出ていないと聞いていたおじさんも元気に店を切り盛りしててホッとした。
約4時間。ネガフィルム6本 どう撮ろう、どう見せようとは意識せずに、目に映るものにレンズを向けてシャッターを切って来た。 月曜日には現像が上がってくる。
さて、何が写ってるのかな。 プラスアルファを写すことのできるカメラではなかったのだけれど。
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