日々あんだら
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2005年09月16日(金) |
撮りたい人はみんな撮るんだ。 |
写真を本格的に(と言うてもてええんか?)始めたのは3年前くらいなんだけど、 その前から使い捨てカメラは常にカバンの中に入っていた。 急に誘われて飲みに行った居酒屋とか、真夜中にみんなでフラリと行った山頂の駐車場でとか、 友達が部屋でグダーってしてるところとか、そういうのをパシャパシャ撮っていたような気がする。 卒業の数ヶ月前からは、大学で友達を見かけるたびに呼び止めて、一緒に写真を撮っていた。 もう二度と会えないかもしれない彼らを、せめて写真にだけは残しておきたかった。 当時の僕にとって、カメラは「表現の道具」では決してなかったが、 「記録の道具」として親しんでいたことは間違いない。
しかし、カメラをやってる人なら誰でも感じたことはあるだろうと思うけど、 家族にカメラを向けるのはなぜか気恥ずかしく、ほとんど撮ったことはなかった。 旅行に行った先での記念写真ならともかく、家でご飯を食べているところなど、 家族の方も撮られるのを嫌がるものだ。 なので、僕が今まで撮ったフィルム(使い捨てカメラのものも全部手元に持っている)に 家族の姿はほとんど写っていない。
写真を「表現」として始めた次の年の春、そろそろ祖父が危なそうだと実家の母親から聞かされた。 祖父はその数年前から3日に1度、人工透析を受けていた。ウチの家系は腎臓が悪い。
ある日、いつも通り透析に行った祖父は病院で倒れてしまい、少し入院することになった。 少しのはず入院は、しかしいつまで経っても退院にはならなかった。 1週間が2週間になり、それが1ヶ月、2ヶ月と延びた。 祖父の体の中に、悪性の腫瘍が巣食っているのが見つかった。 手術で取り除くことも、抗がん剤で対抗することも、祖父の残った体力では選択肢にはなりえなかった。
入院が3ヶ月になろうとしていたある金曜日、仕事中の僕の携帯に母親から電話がかかってきた。 今週末、帰って来れないか?と低い声で言う。 祖父がかかっている先生が、会わせたい人間には会わせておくように、とおっしゃったらしい。 いよいよか、と思った。 しかし、80を越える年齢であっても僕より背の高い、あの頑強な祖父がそんな簡単にいなくなるなんて、 あまり実感が沸かなかった。 母親に様子を尋ねると、1日のほとんどを眠って過ごしているが、起きた時には変わらず元気そうらしい。
その翌日の土曜日にはどうしても外せない用事が入っていた。 当時所沢に住んでいた僕にとって、そう簡単に帰れる距離でもなかった。 「今週は帰れないけど、来週末には絶対帰るわ。大丈夫やろ?」 今にしてみれば呑気な台詞だが、本当に実感が沸いてなかったのだ。 「うん、まあ来週でも大丈夫やろ」 母の台詞も呑気だったので、僕は安心してその翌週に帰ることにした。 GWには帰らなかったので、久しぶりにじいちゃん孝行でもしてやるか。 その程度だった。
翌週、僕は飛行機で香川に向かって飛び立った。 前週に帰省した妹からは、元気だったと聞いていた。説教まで喰らったらしい。 膝の上にはいつも使っていたカメラバッグ。中には使い慣れたカメラが2台。 そんなに切迫感はなかったけど、いつでも帰れるわけではない僕にとって 最後に会える祖父かもしれないという思いはあった。 病室で茶飲み話でもして、何枚か写真を撮ろうと思っていた。 そう言えば小さい頃以来、じいちゃんと一緒の写真もないなぁ。ばあちゃんに撮ってもらうか。 じいちゃんとばあちゃんのツーショットも撮ってあげないとな。
実家に着き、遅めの昼食をとってから、付き添いをオカンと交代する祖母を乗せて病院に車を走らせた。 今朝は朝からずーっと寝ているらしい。 病院に着くまでの約30分、祖母との会話はあまり覚えていない。 多分説教臭い話だったので聞き流していたんだと思う。 後部座席にはもちろんカメラバッグを積んでいた。
病院に着く。 祖父は個室で眠っていた。 びっくりした。 たくさんのチューブにつながれ、寝息は常にゼィゼィと苦しそうだった。 正月に会った時にも、衰えて来ている祖父の姿を小さい頃の記憶の中の祖父と比べて愕然としたんだけど、 その正月の時の記憶と比べても、驚くほどやつれていた。
「最後に写真を」とか言える雰囲気ではなかった。 その時初めて僕は、自分の認識の甘さを自覚した。
でも正直に言うと、それでも撮りたかった。 どんな姿だろうが、自分の見る最後の祖父の姿を記憶だけではなく、フィルムにも焼き付けておきたかった。 だけど、周りにいる家族や親戚たちの目が気になって撮れなかった。 「こんなところで写真を撮るなんて、なんて不謹慎なんだ」 そう思われそうな気がした。 僕が道楽でカメラを始めたことは、みんな知っていた。
その夜、日付が翌日に変わって少し経った頃、祖父は結局一度も目を覚まさないまま、息を引き取った。 最後の記念写真は撮れなかった。
今でもそれを時々思い出しては後悔することがある。 僕の意思のこもった祖父の写真は1枚もない。 最後の日、周りから白い目で見られようとも、祖父の最後の姿をなぜ写真に収めなかったのか。 それ以前に、もっと元気だった時になぜ写真を撮っておかなかったのか。
祖父が亡くなった夜、朝まで1人で夜伽をしたけれど、さすがに亡くなった祖父の姿を撮る気はしなかった。 祖父と2人で数時間を過ごすのに耐えかねて、カメラを取って来たけれど、縁側から庭ばかりを撮っていた。 部屋の中にレンズを向けることはできなかった。
それ以来、帰省すると、僕は家の中でも常にカメラを持っている。 ご飯の時も、家族でTVを見ている時も。風呂とトイレ以外ずっと。(笑) 相変わらず家族を撮るのは気恥ずかしいし、みんなには鬱陶しがられている。 「飯食っとる時に撮るな」とよく文句を言われる。「落ち着かんわ」と。 風呂上りのオカンや祖母からは「化粧もしてないのに撮るな」と怒られる。 でももうあんな後悔はしたくないから、僕は隙を伺っては素早くカメラを構える。 彼らの迷惑なんか知ったこっちゃない。(笑)
家族だけでなく、友人たちもそうだ。 最近よく遊んでもらってる友人たちは僕がカメラを構える姿に慣れて来たらしく、 でっかいカメラ構えようが、でっかいシャッター音を響かせようがほとんど反応しないようになってきた。 こないだアップした写真に使わせてもらったある女の子なんか、「いつの間に撮ったん?」などと言って来た。 だんだんいい感じになってきている。(笑)
僕は撮りたいと思った人はみんな撮ることにしている。 なので、レンズを向けられても逃げないように。 逃げたら追っかけてってでも撮るからね。(笑)
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