2024年03月05日(火) |
人に死ぬ権利はあるか? |
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人には生存権がある。死刑囚以外の人は「生存権」を基本的人権として持っているわけであるし、死刑廃止論者にはその死刑囚でさえも「生存権」を持つという考えの方もある。だが、過度な延命治療によって「生かされる」ことに反対する人もいるし、自分が末期癌などで死期が迫ったとして、そこで「延命治療するな」という希望は当然のように出すだろう。
「自殺はいけない」という考え方の背後には何があるのだろうか。もちろんその自殺がいじめや生活苦などを理由にしたものならば、その原因を取り除けばいいのであり、死ぬ必要そのものがなくなる。
ただ、本人が「どうしても死にたい」と望んだときはどうずればいいのだろうか。もちろん健常者ならいくらでも死ぬ方法はあるわけで、崖から飛び降りるとか富士山麓の樹海に入るとか、船から海に飛び込むとか、登山中に故意に滑落するとか、見方よっては絶対に事故に見えないような形での自殺も可能なのである。
ALS患者から謝礼を受け取って安楽死させた医師の裁判が行われ、裁判所はなんと懲役18年という重い罰を与えた。謝礼目的、お金目的に安易にその行為に手を染めたという捉え方をされたのである。そして亡くなった女性の遺族が重い処罰感情を持つという。そこにもオレは違和感を感じるのだ。その女性の「死にたい」というサインを遺族はどこまで理解していたのか、あるいは全く気付いていなかったのか。
災害や事故で家族全員を亡くして自分だけが生き残ってしまった場合、大切な恋人を不慮の事故で失ってしまった場合など、人には「もういっそ死んでしまいたい」という気持ちが生まれることもあるだろうし、その気持ちは正当なものではないか。
死にたくなった人の気持ちはその当人しかわからない。そこで第三者が安易に「命を粗末にするな」と言えるのだろうか。もうその状況では死ぬ以外の選択肢がないというような状況ももしかしたらあるかも知れない。もちろんそれがうつ病などの精神疾患に起因するものならば心療内科や精神科の医師によって救うことができるだろうし、宗教や信仰に救いを求めるということもあるかも知れない。
徐々に進行していくALSという病の中で、まだ自分の意志を表明する方法があるうちに、生に関する「自己決定権」を行使しようということが今の日本では認められていない。もしも安楽死を可能にすれば、死にたくない人まで同調圧力で殺されてしまうからである。「医療費削減」という国家の方針に従って大量の安楽死が行われるかも知れないのだ。そんな未来は想像したくない。だから我々は「自分からは死ねない社会」を受け入れるしかないのだろうか。
オレは今回の裁判でそうした議論が尽くされるものだと期待していた。ところが裁判はそういうものではなく、「ゼニのために殺人を引き受けた悪徳医師」という形で矮小化され、議論が尽くされないままに「懲役18年」という結果になったようにオレには思えるのである。
人には「死ぬ権利」があるのか。それともどんなに苦しくても、みじめな人生であっても、なんの展望も未来もなくても、「生きること」が義務なのだろうか。無期懲役や終身刑の囚人が「いっそ人生を終わらせてくれ」と望んでも彼らには「生きること」という罰が与えられるわけである。
オレにはこのテーマに関する答えは出せない。もしも自分が末期癌や治療不能な難病になったときにどのように感じるのか。現時点ではなんとも言えないのである。
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