2022年10月07日(金) |
世耕議員と馬鹿について |
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全く事実ではないことを社会的地位のある人や権力のある人が語った時、周囲はどのように受け止めればいいのだろうか。有名なのは中国の歴史書、『史記』にある「指鹿為馬(鹿を指して馬と為す)」の故事である。
秦の二世皇帝、胡亥の時代、権力をふるっていた宦官の趙高は謀反を企み、自分の味方と敵を判別するため一策を案じたという。彼は宮中に鹿を連れてこさせてから『珍しい馬が手に入りました』と皇帝の胡亥に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と大真面目に尋ねたが、趙高が左右の廷臣に向かって『これは馬に相違ないか?』と聞いたところ彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えたという
誰がまともで誰がそうでないかということを趙高はそうやって区別して、まともな人たち、つまり「鹿である」と正しく事実を答えたものを処刑したのである。「馬鹿」ということばの語源がこれだという説もあるが、そもそも「鹿」の文字の音は「ろく」であり。「馬鹿」は「ばろく」と読むことになるのでこの説は今は否定されている。
自民党の世耕弘成参院幹事長は10月6日の参議院本会議で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係がクローズアップされている安倍晋三元首相について、「教団とは真逆の考え」だったと全く事実と違うことを語った。
世耕議員がそうして「真逆の考え」だったという根拠だが、代表質問で世耕氏は旧統一教会を「『日本人は謝罪を続けよ』と多額の献金を強いてきた団体」と表現。安倍氏が首相時代の2015年に発表した戦後70年談話で、次世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と主張していたということを根拠に上げている。
ところが実際の安倍晋三の行動は、まさに統一教会の広告塔として獅子奮迅の働きをしていたわけである。統一教会票の差配にも関与していて、誰を応援して誰を落とすかは安倍晋三の考え次第、閣僚は壺議員を積極的に起用、警察には圧力を掛けて統一教会を公安の開始対象から外させたのである。
「安倍晋三と統一教会の考え方は違う」という世耕氏の発言と、実際に壺まみれだった安倍晋三の行動と、どちらに真実があるのだろうか。世耕氏がいくら「馬」と言っても実際は「鹿」なのである。ここで世耕氏に賛同して「そうだそうだ馬だ」とほざく議員たちが居たとしたら、まさに趙高に与して秦を滅亡に導いた亡国の輩ということになる。さて、自民党議員たちはどのように行動するのだろうか。
「国葬」を強行することは、壺まみれ、嘘まみれのクズ野郎だった安倍晋三の事実を隠蔽して、立派な政治家だったという神話を押しつけ、偶像化するものである。それは文化大革命で1000万人以上の国民を殺した毛沢東や、大勢の政敵を粛清したスターリンのような外道を崇拝する行為と同じである。まあ安倍晋三のような小物を毛沢東やスターリンと比べるのはかなり無理があるけれども、日本の憲政史上において彼ほどのクズ野郎はそうそうお目にかかれない。森喜朗の悪を5とすれば、安倍晋三は100くらいというのがオレの実感である。
ここまで書いて、オレはちょっと難しいたとえを使いすぎたことに気がついたのである。賢明な読者諸氏にとって、普段のオレの書いてる内容からすれば今日の記事は普通なんだが、ツイッターのリンクからやってきた初めて読むような人にはこの高度な内容はおそらくチンプンカンプンだろうと思うのである。まあそういう場合はしっかり読書してもらって読解力を身につけてもらうしかないのである。なんとも無責任な発言で申し訳ないのである。とにかく壺はダメなのである。あの連中は日本社会から完全に消し去るしかないのだ。共存しようという自民党議員は全員辞任させてもらいたいのである。
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