フーテンの寅さんこと渥美清さんが亡くなったのは1996年だから、あれからもう25年になるのである。昭和の雰囲気を思い出し、ノスタルジーに浸れるあの映画のよさを思うたびに、寅さんと全く正反対の小室圭という話題の人のことをオレは考えてしまうのである。
寅さんは女性によくモテる。しかし、最終的にその恋は実らないのである。寅さんは「自分なんかと一緒になっても不幸になるだけだ」と身を引くことが多い。彼の行動には彼なりの理由があって、女性に対してはいつも「どうすれば相手が一番幸福になるか」ということを考えているのである。自分の幸せよりも相手の幸せを常に考え、分をわきまえているのが車寅次郎である。
同じように女性にモテる存在である海の王子様、小室圭は国際基督教大学在学中にこともあろうに秋篠宮真子さまと知り合い、その愛を得ることとなった。ここで小室圭さんはどのように考えたのだろうか。皇室という日本で最も格式を重んじる家柄の相手と、自分が結婚することを客観的にどのようにとらえたかということである。
寅さんの美学はとても日本的だ。日本男児というものはかくありきという行動なのである。それは武士道の美学に通じる。秘めた恋、相手のことを思いながら一生隠し通す恋というのが日本的美学である。自分が愛した相手が主君の姫君ならば、恋の成就よりもむしろその姫君を守るために死ぬことにこそ価値があるというのが武士道の美学である。
しかし、そのような発想は世界標準とはかけ離れたものである。愛しているならその愛を貫き、姫君と一緒に幸せになれというのが世界では普遍的な行動だ。もっともその片思いは必ずしも成就するとは限らないわけで、相手には全くなんとも思われないのにストーカー的に付きまといをする馬鹿もこの世にはいるわけで、それは潔さもないし、もちろん武士道精神からも外れている。
小室圭は真子様の愛情を知った時にどう感じただろうか。自分の家が抱えた複雑な問題と、およそ毒親としか思えない母のさまざまな行動。そして常軌を逸した母親の金銭感覚を彼は批判的に見つめることができただろうか。そして、真子様と対等の交際ができるようになるには自分にとって何が必要なのか理解したのだろうかということである。
もしもオレが小室圭の立場であったならば、「真子様のために身を引く」という選択をしただろう。それはオレがむしろ車寅次郎の価値観に近いからである。自分のような家柄もたいしたことないし出自も怪しい人間は真子様の相手にはふさわしくないと判断するからだ。そのような考察が小室圭にあったのかどうかは正直なところわからない。彼の内面は誰にもわからないし、彼が書いた文章が本心をすべて語ってるとも思えないのである。
そして真子様は「天皇家」という家よりも「小室圭」という自分を愛してくれる男性を選んだ。イエが大事なのか愛が大事なのか。これは日本文化の中で不変のテーマなのである。森鴎外の小説「舞姫」で太田豊太郎はエリスよりも日本での立身出世を選び、森鴎外自身もドイツから彼を追ってきた女性を捨てた。彼もまた「イエ」と「愛」との間に苦しんだ人間であった。
おそらく寅さんは行動こそ破天荒だが実際は「イエ」を大事にする日本的価値観の持ち主だろう。そしてオレはイエよりも愛情の方に価値があると思うから、駆け落ち的に小室圭との結婚に踏み切ろうとする真子様を応援したい。それは日本で最も価格の高い「天皇家」にとって一つの劇的な変化をもたらすかも知れないのだが。
悠仁親王が自分が天皇として即位することを拒否できるだろうか。おそらく周囲はそんなことを許さないだろうし、兄弟が大勢いるならそういう自由も許される。兄弟の中でなりたい者が天皇になればいいわけだから。
しかし、皇位継承可能性のある男子は父と自分の2名しかいないという現実を前にして彼が「即位したくない。自由に生きたい。ぼくはユーチューバーになりたい」などと希望したとしてそれが実現するだろうか。職業選択の自由もなく、決められた人生しか選べないということが人として幸福だろうか。
時代が変われば価値観も変わる。後世の人たちが今回の真子様のご結婚をどのように受け止めるのか。オレは興味がわくのである。愛を貫いて一緒になろうとしているお二人をオレは祝福したい。そしてこれまでの数々の暴言をどうかお許し願いたい。お二人にはぜひ井上陽水さんの『断絶』という曲を聴いてもらいたい。この曲をお二人がカラオケで一緒に唄う動画をyoutubeに投稿して世間を驚かせてもらいたい。
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