2018年03月29日(木) |
散る桜、残る桜も散る桜 |
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急にやってきた陽気で桜が一斉に咲いてしまった。オレが勤務する学校の正門の所にある桜はいつも入学式の記念写真の背景になっていたのだが、今日はもう散り始めていた。入学式の日にはかなり散ってしまっているだろう。なかなかタイミングは難しいのである。桜が一番美しいその時にどこでお花見をするかというのは、多くの日本人にとって大切な行事である。
たとえば職場でお花見会の日程を決めていても、今年のように例年よりも1週間くらい早くなってしまうともうダメだ。新入社員の歓迎会を4月の第一土曜にした場合、東京では絶対に遅すぎるのである。
オレは「落花の風情」というのを愛している。たとえば嵐山で少し強い風が吹いたときに花びらが一斉に舞って、保津川(正確には大堰川というのがあの渡月橋のあたりの名称らしいが)の川面に落ちるのがなんとも言えず美しいのである。風が吹いて、花びらが舞うように散る。そして足下に絨毯のように花びらが敷き詰められている。これが美しいと感じられないような鈍感なヤツは日本人をさっさとやめればいい。
オレにはいくつかお気に入りの花見の場所がある。たとえば明日香村の甘樫丘である。この丘のてっぺんに咲いている桜はとてもすばらしい。
京都と大阪の境目にある「背割堤」もすばらしい。ここは桂川、宇治川、木津川の3川が合流する地点なのだが、大学生の時によく乗った京阪電車からこの眺めを見てなんと美しいことかと感動した。
和歌山県の紀三井寺もいい。ここは石段を登った少し高いところにあるのだが、風が吹くと花びらが風で舞うその眺めがとてもすばらしいのである。
大宇陀にある又兵衛桜の巨木もすばらしい。周囲を圧倒するその威風堂々たる姿がいい。醍醐寺の枝垂れ桜の巨木は見ていると少し恐怖を感じる。どこか落ち着かないような、なんだか不安になって苦しくなるようなそんな桜なのだ。
坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」を読んだことがあるだろうか。満開の桜の下は人を狂気に変えてしまうのである。だから人はそこで酒を飲まずにはいられないのである。浜寺公園の桜の下が広大な野外BBQ場になっていることは大阪府民に広く知られている。この週末に浜寺公園の近くに行くと、肉の焼ける香りが立ちこめていることだろう。想像するだけでよだれが出るのである。
桜の満開の時期は一年の中ではほんの一瞬だ。そのほんの一瞬の美しさのために桜を育てていても、初夏は毛虫が大量に発生するし、秋は落ち葉の処理が大変だし、美しい桜の森を維持するのはなかなかに大変なことであり、観光客はその一番美しい瞬間しか見ていないからその背後にある苦労を理解することはない。
吉田兼好は徒然草の中で「満開の桜だけに価値があるのではなくて、すでに散ってしまった桜にも、また結局花見には行かなかったけれど心の中で想像した桜にも価値がある」ということを書いている。オレはその負け惜しみに激しく同意するのである。
2月12日に亡くなったオレの父はとても桜が好きだった。父が仕事を辞めてのんびりするようになってから、オレは何度か花見に連れて行ったことがある。最後に入院したとき、「今年の桜を見れるかな」と言った父の棺には、桜の造花を入れることしかできなかった。西行法師は「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」と詠んでその願い通りに桜が満開の頃に亡くなった。その入滅の地である弘川寺には西行桜と呼ばれる桜が植えられている。
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