2017年10月11日(水) |
DQN(ドキュン)とは何か? |
携帯用URL
| |
|
東名高速のSAで、通路を妨害するような形でクルマを駐めてタバコを吸っていたことを注意された男が、注意を受けたことに逆ギレしてその相手のクルマで追い回し、進行を妨害して追い越し車線に停車させ、さらに胸ぐらをつかんで暴行しようとしていたところに後方からトラックが突っ込んできて・・・というひどい事故が起きた。このクソ男のことをオレは「とんでもないDQN野郎だな」と思ったが、そもそもDQNとはいったいなんだろうか。
DQNの基本概念は「頭が悪い」「性格が悪い」の二つである。頭が悪くても性格が素直で善良な人間はDQNではないし、どんなに性格が悪くても高学歴であればDQNには分類されない。だから東大生で変なヤツがいてもそれはDQNとは呼べないのである。どんなに性格が悪くても少なくとも頭はいいからだ。
DQNはその性格の悪さからさまざまな問題行動を起こす。たとえばゴミをそこらに投げ捨てるとか、たばこの吸い殻をポイ捨てするとか、公共の場所で大小便するとか、文化財に落書きするとか、意味もなく目の前の自動車に傷を付けたり、学校の教室のガラスを割ってみたりするのである。万引きや窃盗、カツ上げ、覚醒剤などの問題行動に対するハードルも低く、いつも自分基準だから「こんなことみんなやってることだ」と思っている。だから仮にそれを注意されたり指摘されたりすると、逆ギレするのである。前述の東名高速の事件の男はまさにその典型的な例だったわけだ。
人から問題行動を注意されたとき、普通の人なら反省して改めるわけだが、DQNはその注意を「自分の人格を否定された」と思い込み、「舐められた」と感じるのである。横に女でも連れてると「女の前で自分は馬鹿にされた」と思い込むのである。だからDQNを注意するときは気をつけないといけない。いや、DQNは注意してはならないのである。DQNの頭の中ではその行動は悪いことでも何でもない普通のことなんだから、放置するしかないのだ。まっとうな人間はDQNとは関わってはならないのである。
国民をDQNと非DQNとに分ければ、さまざまな統計の差が顕著に表れるのである。中高年以上ならそれほど差はないのだが、今や若い世代における喫煙率はDQNの方が圧倒的に高いのである。
オレは自分の処世術として、「DQNとはできるだけ関わらない」ということを常に意識している。ではどうやってDQNを避ければいいのか。見分けるための簡単な目安がいくつかある。
たとえばクルマを選ぶとき、DQNは巨大な1BOXカーが好きである。ベルファイアとかアルファードとかエルグランドを所有するドライバーはDQN率が高い。大きくて威圧感のあるクルマなら他に舐められることはないというDQN的発想からそうした選択をするのである。
偏差値の低い大学にはDQNが集まるということもよく言われる。オレが生徒に「しっかり受験勉強して偏差値の高い大学を目指せ!」というのは、間違って偏差値の低い大学に入ってしまうとそこがDQNの巣窟となっていて、まっとうな学びの場として機能していないことが多いからである。
まあこのようなことを書くと、「あなたはDQNを差別するのか!」という抗議を受けそうだから言っておくが、オレはDQNは教育によって撲滅可能だと思っている。DQNを生み出すのは家庭環境や教育なのだ。
親がDQNの場合、子もDQNになる可能性は極めて高い。これを短絡的に「DQNは遺伝する」ととらえる馬鹿もいるが決してそういうことではない。DQN家庭にはDQN的な価値観が充満していて、その価値観の中で育った子どもはDQN化しやすいということである。それを防げるのは幼稚園や小学校での教育に委ねられている。たとえ両親がDQNであっても、しっかりと正しく育って学力を身につけている人をオレは数多く見てきた。そういう人は自虐的に「うちの親はどうしようもないDQNなんですよ。困ったチャンですよ」と語ることがあるが、そのDQN親を涙ぐましい努力で世間に迷惑をかけないように守ってるその努力にオレは敬意をはらいたい。
こういうことを書いていると、いくらでも書くことがふくらんでいく。西田幾多郎はかつて「善の研究」を書いたが、江草乗は「DQNの研究」が書けそうである。関西学院大社会学部教授の難波功二さんは、京都大学でオレの一年後輩にあたるのだが「ヤンキー文化」の研究をしておられる。きっとDQNに対してオレが感じてることをかなり理解されてるような気がするのである。
DQNについてはいずれ時間のあるときにまた書いてみたい。DQNとはオレにとって「観察の対象」であり、とても興味深い存在なのである。
←1位を目指しています! m(_ _)m