2017年01月23日(月) |
人を殺しても責任を取らない人たち |
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名古屋大学の女子学生が「人の死ぬところを見たかった」という理由で知人女性を殺害した事件があった。今その事件の裁判が行われているのだが、女子学生の弁護士は「正常な判断ができる精神状態ではなかった」ということで無罪を主張していて、女子学生当人も「また人を殺したくなるかも知れない」と言ってるらしい。このようなサイコパスを「無罪」にしてしまうと、これから先に起きる精神異常者の犯罪はすべて「無罪」ということになってしまい、悪しき前例となりかねない。またそうして責任を問われないということは、今度は精神障害を持つ人たち、多くの統合失調症の患者たちに対する差別や偏見につながってしまう。
だからオレはこの殺人女子は「死刑」が相当だと思っている。自己の快楽のための殺人など断じて許されないし、そのような反社会的な存在はこの世に存在させるべきではないとオレは思っている。殺人願望のある人をどうしてこの社会は受け入れることができるだろうか。そんなことは絶対に無理だ。
池袋でてんかんの発作中にクルマを暴走させた歯科医師が「暴走はてんかんの発作によるもの」「薬はきちっと飲んでいたので自分には過失はなく無罪」と主張してることもオレは納得できない。もしもてんかんの人が薬を飲んでいてもこのような発作による暴走の可能性があるのならば、法律を再度改正しててんかんの人には運転免許を与えないというルールに戻すべきである。薬を飲んでいれば正常に運転できるという判断がされたから今は運転が許可されているわけで、この歯科医師の主張はすべてのてんかん患者にとって許しがたい発言である。
理由よりも人は行為の結果に対して責任を取るべきだ。飲酒していても正常な運転ができていたから危険運転ではないと主張するクソみたいな連中が居て、それを擁護するクソ弁護士が居る。その結果として事故を起こして人が死んだのならばそれは危険運転ではないのか。通常の運転でも技量の劣ったドライバーは危険をまき散らしているのだ。運転が下手くそというだけでオレから見れば十分に危険運転だが、それを世間が「危険運転」と認定することはない。運転の上手下手には客観的なモノサシがなく、免許を持つ者はすべて運転技能を有すると判定されているからである。だからこそ基準値以上のアルコールが検知されればすべて「危険運転」の範疇に入れるべきなのだ。それでこそ公平ということではないか。
公平な法の運用ということは、起こした事件や結果に対して誰にでもきちっと責任を取らせることである。粉飾決算をすれば経営者は実刑判決を喰らうべきだ。どうしてホリエモンは実刑判決なのに東芝の連中はお目こぼしなのか。役員や取締役にもと検事総長とかを入れておけば見逃してもらえるというのが日本社会のルールなのか。天下りを禁止するルールを作りながら、巧妙な抜け道もちゃんと用意しているというのが日本の官僚支配なのである。今回明るみに出た文部科学省の問題も、当事者たちは「運が悪かった」と思ってるだけでそれを悪いこととは誰も思っていない。
ふだん通勤でクルマを運転するオレは、自分に過失がなくても交通事故の加害者になる可能性が常にある。もちろん自分の身を守るためにドライブレコーダーを装備したり、ルールを守って一時停止や徐行することは必須のことだ。それでも大きな暴走車に正面から突っ込まれればオレは助からない。軽自動車に乗るということは、もしかしたら安さと引き換えに命を代償にしてるのかも知れない。巨大なハマーやレクサスに乗ってる人たちを見ると、ああいうクルマならどんな事故でも助かりそうだなと思ってしまうのである。
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