2015年11月23日(月) |
大阪W選挙を終えての感想 |
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大阪府知事・大阪市長を決める大阪W選挙が終わった。自民党が出した対抗馬の栗原貴子、柳本顕の両氏に民主公明そして共産党までが相乗りして、組織票で維新候補をつぶそうとしたのだが、そういう狡さが逆に大阪の人間の神経を逆なでしたのかも知れない。またあまりのくだらなさと、外山恒一氏が街頭演説した「誰も投票しなければ誰も当選しない」という主張に影響されたのか、投票率も前回を10%くらい下回る約50%という低投票率だったわけだ。結果的に府知事も大阪市長も維新の推薦する候補が勝つという結果に終わった。
大阪府知事と言えば、シャープから賄賂の大型テレビをもらって便宜をはかり、ついでに公立高校エアコン導入時にとんでもない額を払って業者をぼろ儲けさせた太田房江知事の暗黒時代を知る府民は、女性の知事が再び誕生することを望まなかったかも知れない。
公明党や共産党を支持していた層が、今回の選挙でスンナリ自民党推薦の候補に入れたとは考えにくい。もしもそうならこれだけ低投票率だったわけで自民推薦候補が当選できていたはずである。つまり、自民党の候補を共産党が応援したために、共産党の支持者も自民党の支持者も離れてしまったような気がするのだ。そして「棄権」という結果につながったのではないか。
さて、維新は今回の選挙の結果を「自分たちへの支持」ととらえて、当然のことながら一度負けた住民投票を再度仕掛けてくるだろう。もちろん今度は勝つためのさまざまな根回しもきっとしてくるだろうし、前回反対票の多かった地域に対するネガティブキャンペーンも当然のことながらついてくる。
私は「二重行政」がそれほど非効率でどうしようもないほどダメなものであるとは思ってないし、そもそもその弊害がわからない。むしろ橋下氏が廃止したモノの中に、たとえば「大阪府立国際児童文学館」のようなすぐれた施設が存在したことを思うと、彼の文化行政に関する価値観は自分と相容れないということがよくわかる。このような文化施設こそが大阪の宝であり、なんとしても守らないといけないものだったはずだ。ゼニに換算できない価値をゼニの問題で判断するのが橋下氏の行動である。
生徒の集まらない公立高校を廃校にしたり、整理統合の対象にするという方針は、大手企業が売れない製品を整理することと基本的に同じで資本主義的行動原理に従った行動である。しかし、これまで入学試験の偏差値が低くて入りやすいとされた高校が「エンパワメントスクール」という名称で、小中学校の学習内容のやり直しや職業体験に力を入れているということを知ると、その部分はきちっと評価したいと思うのである。少なくとも現状の問題点に対して「何かを変えよう」「現実に合わせて改革しよう」というという点では以前の教育行政が何もできなかったことを変えることに成功したのである。
大阪にも田舎がある。先日、母と一緒に墓参りに行ったおりに、その見晴らしのいいお墓の下にあった横山高校がなくなって更地になっていた。地域の人口が減少して入学者が減れば当然のことかも知れないが、同じように能勢高校も存続の危機に立たされているらしい。学校がなくなってしかたなく長距離通学しなければならなくなる生徒はかわいそうだが、経済効率ということを考えれば高校以上の学校は都心部の便利なところに置いた方がいい。逆に幼稚園や小中学校は小規模で徒歩圏内にあるべきだ。幼稚園の大規模統合をした松原市のやり方は間違ってると思うし、高校通学のために早起きしないといけない田舎の子の宿命に関してはなんとも申し訳ないと感じる。
もっとも父の実家が和泉市の山奥で、本家の長男(つまり私の従兄弟)はその山奥から三国ヶ丘高校にはるばる通っていて、今は医師になってるわけだから田舎のハンデは努力によって克服可能なのはわかる。
すべてを経済効率で判断する維新政治は資本主義社会の中では正義かも知れない。しかしオレはその良い部分をある程度認めつつ、どこか釈然としないモヤモヤしたものを心の中に残している。それがどういうものであるのかうまく説明できないが、ただ「どこかが合わない」という違和感なのだ。かといってそれ以前の自民党の連中がやってきた「利権調整型」の政治システムに戻ろうとは思わない。それはもっと大阪を衰退させるだろうし、将来の滅びの姿しか見えてこないのである。
維新政治の中に「ゼニだけの問題じゃない」という視点で行動できる人が現れて欲しいとも思うが、次々に見つかるスキャンダルは、作ってもないチラシを作ったことにして政治活動費をだまし取った稚拙な詐欺女議員とか低レベルのことばかりで、それもまた嘆かわしい限りである。まっとうな人をちゃんと維新は議員に育てて欲しいのである。
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