2012年07月08日(日) |
なぜ死刑が必要なのか |
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刑罰には二種類ある。教育刑と応報刑である。前者に分類されるのは有期の懲役刑であり、後者に分類されるのは終身刑と死刑である。終身刑は社会に復帰させることを目的としないという点でどちらかというと死刑と同じ性格を持つ。仮釈放制度を持つ無期懲役は、終身刑とは異なるので懲役刑の一つだと言える。
殺人が必ず死刑になるわけではない。夫婦げんかの末にカッとなって激情にかられてその相手の首を絞めて殺してしまっても、普通は死刑にはならずに有期の懲役刑となる。殺人事件全体の中で死刑や無期懲役になるのは全体の3%しかないのである。死刑というのは「特別に悪質な者に対してのみ下される応報刑」であるからだ。どんな悪人でも矯正は可能であるという前提でさまざまな刑罰を科すわけだが、その残虐非道な行為がある一線を超えてしまうと、もはや矯正不能という判断が裁判官によってくだされて死刑や終身刑(仮釈放されない無期懲役)となるのである。
たとえばオウムの松本智津夫の場合、誰もがこの極悪非道のイカサマエロ教祖を「死刑が相当」と感じるだろう。一般人が死刑やむなしと感じるラインをはるかに超える悪事を彼は行った。彼が死刑であることに異論をさしはさむ人はあまりいないだろうし、彼の登場は日本の死刑廃止を100年遅らせたということも言われるのである。松本智津夫を死刑にしなくていいと主張するのは「ドラえもんがなんとかしてくれる」という詭弁で自分の弁護した被告人をますます死刑に近づけたあの安田好弘弁護士くらいだろう。
本来、人を殺すという行為の罪は自らの命を差し出すことでしか償えないものだとオレは考える。だから殺人罪の刑罰はすべて死刑でもよいと思っている。ところがそれはあまりに厳しすぎるということで被害者が1・2名であるとか、事件が偶発的なものであるとかいくつかの条件を与えて減刑した結果が有期の懲役刑だと思うのである。また、江戸時代にあった仇討ち制度は明治になって廃止されている。この仇討ちの廃止とセットになってるのが国家の行う「死刑」であるというのがオレの見解だ。つまり死刑とは、廃止された仇討ちのかわりに国家が代わりに仇を討ってくれる仕組みであるということである。海外でどんどん死刑が廃止になっているが、少なくとも日本ではこのような経緯があり、死刑制度そのものが存在するべき必然性があるのだ。
冤罪による死刑を防止するために死刑そのものを廃止しろなんて暴論をほざく馬鹿がいるが、そいつらは問題の本質を根本的にはき違えている。死刑を廃止したいのならば、オレのこうして説く必要論に対して、絶対に死刑(という形の応報刑)はいけないという論陣を張らなければならないのである。冤罪による死刑の誤執行を100%防ぐことはできない。それによって10年に一人の犠牲者が出たとしても、だからといって死刑を廃止するのは根本的に間違った議論である。死刑廃止を主張する馬鹿は言う。「国家による殺人はたった一人でもあってはならないことです!」おまえは本当に馬鹿か。国家が何百万人を殺した太平洋戦争はどうなんだ。毎年数千人死んでる交通事故はどうなんだ。「たった一人でも死んではならないのです!」という理由でクルマを禁止するのか。確かに日本国内でクルマを走らせなくすれば交通事故はなくなる。冤罪による死刑を恐れて死刑を廃止しようというのは、交通事故を恐れてクルマをやめようというのと本質的に同じである。人が人を裁く以上、絶対に冤罪にならないなんて保証はないのだ。
ただ、冤罪をふせぐための仕組みは存在する。日本は三審制だし、仮に死刑判決が確定しても再審請求もできるし、法務大臣が「冤罪かも?」と疑問を感じるものは死刑執行命令を出さないし、何重にも冤罪をふせぐための仕組みが存在する。帝銀事件の平沢死刑囚は結局執行されないままに獄中死したが、多くの法務大臣は彼の冤罪の可能性を思って執行命令を下さなかったのである。たまってる死刑囚を一掃したあの法務大臣、田中伊佐治でさえも平沢には死刑執行できなかったのだ。死刑相当の犯罪であっても死刑にせずに無期懲役にして再審の可能性を残す場合もある。それによって救われた人も大勢いる。足利事件の菅家さんのようにちゃんと無実の人は救済されてきたのだ。自白偏重主義から証拠主義に警察の姿勢も大きく変わった。取り調べの過程は可視化され、録音録画されたものが法廷でも証拠資料として使用できるようになった。冤罪が起きてもいいなんて検察も警察も思ってはいない。むしろ恥だと思っているはずだ。だから疑わしくてもなかなか起訴できないものも多い。次々とある人間に関係した人が死ぬ連続保険金殺人なども、状況証拠が揃っていても警察はなかなか動き出せずにいつもマスコミに先を越されている。冤罪を恐れる余り臆病すぎるのが今の状況なのである。
死刑を廃止していて終身刑もなく、最高刑が禁固21年というノルウェーの刑務所はまるで高級ホテルのような居心地である。看守と受刑者が一緒に談笑しながら焼きたてのパンを食べたり、受刑者の利用する売店でステーキ用の肉が売られていたりするのである。その「人権大国」のノルウェーでさえも数十人を虐殺した無差別テロの犯人に対しては「死刑の必要」を感じる人も多いのである。無差別に数十人を殺そうとする行為が「教育刑」ではもはや矯正不可能だと誰もが思っているからである。
死刑の必要性を説くならば、まず教育刑と応報刑の違いから説明しないとだめだ。死刑にするというのは「こんなクズ野郎は改善不可」と社会がさじを投げることである。教育の効果が全否定された時、残るのは「応報」つまりそいつのやった行為を命で償わせることだけである。被害者遺族による復讐である。ただ直接手を下せないので国家がそれを代わりに行ってくれるのである。だからこそ応報刑としての死刑は必要なのである。
死刑が他の刑罰と同列に論じられない、つまり「刑罰ではない別の何か」であることをご理解してくだされば、その必要論も論理的に説明できるとオレは思うのだ。一時の感情に流されて「死刑!」と叫ぶのではなくて、やむを得ず死刑という罰を選んでいることの理由がちゃんとあるのだと。
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