2011年07月30日(土) |
伊良部秀輝とは何者だったのか? |
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宮古島と2012年に橋でつながる予定の伊良部島という小さな島がある。オレはその島を知ったときにその名の「伊良部(イラブ)」という響きに、2003年の阪神タイガース優勝に貢献したあの怪腕投手、伊良部秀輝のことを連想した。しかし、彼が宮古島の生まれであったことを知ったのは今回の訃報に接して改めてウィキペディアなどで読んでみたからだった。
元ヤンキースの伊良部さん死亡 ロス近郊の自宅で
プロ野球のロッテ、阪神や大リーグのヤンキースなどで投手として活躍した伊良部秀輝さん(42)が自宅のある米カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で亡くなったことが28日、わかった。ロサンゼルスの捜査当局などによると、27日午後4時すぎ、伊良部さんと連絡が取れなくなった友人らの通報を受けて自宅を調べたところ、遺体が発見された。自殺と見られている。
伊良部さんは1987年秋のドラフト1位指名で尽誠学園高(香川)からロッテに入団。93年には当時日本最速の球速158キロを記録した。97年に大リーグのヤンキースに移籍。エクスポズ、レンジャーズでプレーした後、2003年に阪神で日本球界に復帰し、18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。04年に戦力外となった後は日米の独立リーグ球団にも在籍した。通算成績は、日本のプロ野球で72勝69敗11セーブ、大リーグで34勝35敗16セーブ。(ニューヨーク=村上尚史)
野球選手というのは野球ができなくなったときに死を考えるものなのだろうか。彼が最終的に自殺という選択をしたことがオレは残念でならない。少なくとも彼がロッテのエースとして活躍し、ニューヨークヤンキースでも活躍した経験から得た知識や野球理論の中には多くの宝物が含まれていたような気がするのである。
2003年の阪神タイガースの優勝を支えたのは誰か。下位球団中心に20勝した井川慶か、つなぎの3番打者として本塁打を捨てた金本知憲か、抑えで活躍した左腕のジェフ・ウィリアムスか、さまざまなに語られるが前半戦に驚異的なペースで勝ち星を重ねた伊良部秀輝の活躍が大きかったのは言うまでもない。ただ、夏を過ぎてからは明らかに伊良部の調子は落ちていた。打たれて早々と降板することあった。その伊良部をなぜ星野監督は日本シリーズで2度先発させたのか。ヤンキースのワールドシリーズ制覇に貢献した彼が、日本シリーズでも登板するということに星野監督は何らかの意味を感じていたのかも知れない。しかし甲子園で3連勝した勢いで乗り込んだ福岡ドームでの第六戦、伊良部は3点を奪われて早々と3回で降板した。ダイエーの川崎が一回にはセフティーバントで出塁し、3回にはあっさりと盗塁を決めるなど足で揺さぶりをかけられて伊良部は崩れた。
戦後のプロ野球の名勝負と言えば何を思い浮かべるだろうか。村山実と長嶋茂雄、江夏豊と王貞治、掛布雅之と江川卓とオレが想像するのは阪神の選手ばかりなのだが、伊良部秀輝と清原和博の対決もまた世に語り継がれるものであった。伊良部は158キロという当時日本最速の球で清原に真っ向勝負を挑んだ。
消えていった多くの選手たちと、現役引退後も監督やコーチとして球団に残り、野球の世界に身を置く人たちとはどこが違うのだろうか。なぜ伊良部秀輝はアメリカに住むことを選んだのだろうか。
パリーグの試合をほとんど観なかったオレにとって、伊良部秀輝の全盛期の姿というのは記憶にない。阪神に入団した2003年、父とテレビを観戦しながら「今年はすごいピッチャーが来たな」と話したことを思い出す。今オレは、ネット上に残されたいくつかの彼の映像を観ながら改めて彼がどんな投手だったのかと思いを馳せるのである。最後まで彼は野球がしたかったのじゃないかと。5年契約で大金をもらいながらずっとファームにいても平気な井川慶の図太さが伊良部秀輝にあれば、おそらく自殺することなどなかっただろう。
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