2011年03月17日(木) |
生死を分けたのは一瞬の判断だった・・・・ |
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多くの人が津波の犠牲になった東日本大震災だが、助かった人たちと不幸にも命を失った人たちとの境を分けたものは何だったのか。ちょうど震災の時に船上で操業中だった人の貴重な体験が記事になっていた。朝日新聞から引用しよう。
「沖へ」「陸へ」漁師の生死分けた一瞬の判断 大船渡 2011年3月17日4時19分
東日本大震災の大津波で、アワビやワカメの養殖で知られる岩手県大船渡市北部の漁港も壊滅的な打撃を受けた。約300人が加盟する吉浜漁協も施設のほとんどが破壊された。だが、吉浜湾内で操業中だった漁師の大半は難を逃れた。命を守ったのは、一瞬の判断だった。
11日午後2時46分、ワカメの間引きをしていた漁船約10隻を、地震が襲った。
「いつもの地震と違った」と柏崎寿さん(59)。船底からガタガタと大きな音がした。湾を囲む岬の森から、スギ花粉が山火事の火の粉のように舞い上がるのが見えた。
船上には、妻の久美さん(54)、次男の紘治さん(26)もいた。柏崎さんは作業を中断し、沖へ急いだ。水深約70メートル地点で停泊。津波が押し寄せたのは約15分後だった。「水面の上昇に合わせて船全体が浮き上がっただけ。全く揺れなかった」
道下孝人さん(47)と父の芳男さん(76)が乗っていた3トンの漁船も地震で大きく揺れた。孝人さんの頭をよぎったのは、昔から聞かされていた知恵だ。「水深の深い沖なら津波は高くならない」
芳男さんも、先輩漁師から「昭和8(1933)年の三陸大津波で、沖に出て助かった」と聞いたことがあった。
エンジンを全開にして数キロ先の沖をめざした。船が津波を越えていった感覚はなかった。だが、振り返ると、漁港の方で波が盛り上がり、白波が立つのが見えた。
昨年のチリ地震で津波が届いた際も、湾内の多くの船が沖に出て乗り切った。
水産庁は、05年の福岡県西方沖地震を受け、ガイドラインを策定。漁船などが陸上よりも避難海域に逃げる方が早い場合は「水深50メートル以深の海域へ避難し、大津波警報が出された場合は、更に水深の深い海域へ避難する」としている。
2人は沖合で待機し、翌日夕方、漁港に戻った。船はひっくり返り、吉浜漁協が入る2階建ての建物屋上に小型漁船が乗り上げていた。「どんなにしけても、どんな台風が来ても、船が壊れることなどなかった」と、ぞっとした。
一方、庄司満さん(55)の船は小型だったのでスピードがない。雨風をしのぐ船室もないため、一晩停泊したら凍死の恐れもあると考えた。
「目安は15分だった。それまでに陸に上がればギリギリ逃げられると思った」。不安はあったが、ちょうど15分で岸に到達。車でさらに高台に逃げた。その10分後に津波が襲ってきた。庄司さんは「一瞬の判断。ばくちだった。生き延びたが、二度と見たくない光景だ」と語った。(遠藤雄司、赤井陽介、宮山大樹)
沖合に逃げて助かった人たちと、必死で岸に戻って車で高台を目指して生き延びた人たち、どちらも一瞬の判断だった。こうして吉浜港内で操業中だった漁師たちはほとんど難を逃れて助かったのである。「沖へ逃げろ!」ということだったのだ。
その判断が自分だけではなくて多くの仲間を救うことになり、貴重な漁船も失わずに済んだのだ。今回三陸沿岸の漁業施設が破壊されてどこも壊滅してることを思えば、漁船が無事であるということがどれほど大きなことかと思うのである。
津波に巻き込まれて行方不明になった方々の中には、一度安全な場所に避難できたのに、家の様子を見に行って還らなかった人も多い。残してきたペットが気がかりで家に戻って被災した人もいたという。大津波から助かるためにもっとも必要だったのはとにかく全力で逃げることであり、ほんの一瞬の躊躇が生死を分ける境になったことは明らかである。かし、その差はあまりにも大きい。
助かったお年寄りがテレビに映し出された光景を見た父が吐き捨てるように語った。「自分が助かっても家族があかんかったら何にもならんやないか」と。助かった人たちも家族全員助かったわけではない。親族の姿を探し求めて避難所を回るその姿にオレは胸を痛めたのだった。
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