2010年01月17日(日) |
あれから15年〜私たちの生活を返してください |
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15年前の今日、1月17日に阪神大震災が起きた。オレは激しい揺れで目覚めたあの朝のことを一生忘れないだろう。わずか1分間ほどの揺れは永遠にも近い時間に感じられ、このまま家が崩れて押しつぶされることを覚悟したのだから。
あれから15年経った。神戸は震災から復興したように見える。長田の街には鉄人28号が登場した。文化住宅や町工場の建ち並んでいた新長田駅周辺はすっかり変わった。再開発の高層ビルが建ち並び、古くからの住人は激減した。神戸市が目指したのは「きれいな街並み」を作ることであり、住民の生活を取り戻すことではなかった。神戸市の行った「再開発」というのは実は「官製の地上げ」のことだったのだ。かつてポートアイランドで一儲けした経験が忘れられずに土地転がしでゼニを稼ぎたい神戸市の幹部にとって、震災復興もまたゼニを稼ぐ一つのチャンスでしかなかったのだ。もっとも、失敗して赤字になったところで誰も責任を取らない。ガッポリと退職金をもらって辞めていくだけである。
新長田地区の約20万平方メートルの土地は、国からの補助金を含めて総事業費2710億円をかけて再開発されることとなった。神戸市は823億円の市債を発行し、完成したビルの区分所有権を売却して返済に充てる計画を建てた。分譲マンションはとりあえず完売した。しかし商業用のビルやテナントは入居者が集まらなかった。なぜか?賃料が高すぎて採算が合わなかったからである。
そこに文化住宅や町工場が存在した頃は事務所などの賃料も家賃もそれほど高くはなかった。人々はそこで商店を営み、靴工場でパートやアルバイトの人たちが働き、街には活気が溢れていた。金銭的にはそれほど豊かではなかったかも知れない。しかし、そこにはまぎれもなく住民の幸福な日々が存在したのだ。その幸福を一瞬にして震災が奪ったとき、そこにいた住民たちは何を必要としたのか。44階建ての真四角なビルを建ててくれと誰が望んだのか。ただこれまでと同じように地に足がついた生活をすることを誰もが願っていただけではないか。なぜ「元通りにする」ことを全く考えなかったのか。
自分たちの街で自分たちの生活を再建しようと思っていた人たちが次々と札束で追い出されていった。あぶく銭を得た家主たちは長田を捨てて遠くに去って行った。靴工場を再建するよりも神戸市に売り飛ばした方がはるかにゼニになる。そうして街にあった働く場所はどんどん失われた。工場と住宅と商店が適度にミックスされた街だからこそ活気があったのだ。ところが工場も商店もやっていけなくなった。ビルに入居するテナント料や共益費が高すぎるからである。その高い分を商品の価格に反映させれば客離れが起きる。その結果ますます商売はうまくいかなくなり、最終的には借金しか残らない。国が融資した中小企業高度化資金を返済できるほとんど目処は立たない。
震災前にお好み焼き屋を経営していた人が再開発ビルに入居しようとしても開店資金が2000万円以上必要で断念したという。どうやってそんなゼニを用意すればいいのか。不可能に決まってるじゃないか。神戸市の行ったことは復興事業なんかじゃなかった。復興事業という名のただの地上げであり、旧住民の追い出しだったのだ。では新長田地区の旧住民を追い出した結果、街作りはうまくいったのか?生活は快適になったのか。もちろん否である。かつての長田は下町のふれあいがあふれる街だったのに、今はマンションの隣に誰が住むかもわからない無機質な街になってしまったのだ。
破壊された地域社会は多くの独居老人を生み出した。今ももとの街に帰れずに多くの老人が災害復興住宅に住む。そこでは年に数十件の孤独死が発生する。近所の誰とも交流がなく、死後数ヶ月してから発見されるケースも多いという。神戸市の行った震災復興はきれいな街並みという入れ物を再建することしか考えてなかったからである。そんなものよりも住民が望んでいたのは「元通りの生活」であり「今までと同じ人間関係」だったのだ。ゼニをバラマキながらそれを破壊していったのが神戸市の行った地上げではないのか。その地上げは失敗し、多くの土地が売れ残りテナントは空き家だらけとなった。借金は最終的には神戸市民が負担することになる。多くのゼニをかけたのに住民を幸福にするどころか却って不幸にしたのである。
高層ビルなどいらなかったのだ。できるだけ再建にはゼニを掛けず、取り戻すのは粗末な店舗や工場でよかったのだ。だったら家賃も高くならない。その小さな商売を再開するための最小限のきっかけを国や神戸市が補助すれば良かったのだ。家賃が月5万円なら払えても50万円ならとても払えない。老夫婦だけの店がどうして数十年ものローンを組んで店を再建できるだろうか。自分たちの寿命が尽きるまであと十年だけでも今のままの商売ができるように・・・そんな住民たちの願いがどうして通じなかったのか。
震災によって街は破壊された。しかし住民の心まで破壊されることはなかった。あのときがれきの山の前で多くの人々が再建を誓ったはずだ。しかし神戸市はその住民たちの願いを踏みにじって無機質のコンクリートの街を建設し、そこに旧住民が住めないようにしてしまった。返せないような借金を背負わせた。苦しい生活の中で人々は心まで荒廃していったのだ。最初に破壊したのは震災だった。しかし神戸市はその後15年かけて住民の生活を破壊し続けたのである。どちらがより残酷なことであったのかはあきらかだろう。しかし行政側の罪が追求されることはない。地上げのどさくさにあぶく銭を得た市の幹部たちもとっくに高額の退職金をもらって悠々自適だろう。復興事業の利権にむらがった議員たちも莫大な不当利得を得たはずだ。その破壊のしめくくりが飛行機のろくに飛ばない神戸空港だったのだ。どうやって市民は積み重なった借金を返すのだろうか。オレは神戸市が夕張に続いて破産自治体になるような気がするのである。
過去日記
2008年01月17日(木) あれから13年〜阪神大震災が奪ったもの
2007年01月17日(水) あれから12年〜失われたものは何か
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