2008年11月22日(土) |
思い出の京阪特急テレビカー |
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京阪電車の特急といえばテレビカーである。大学生の頃、オレは京都のアパートで一人暮らししていたのだが、大阪の実家近くでしていた家庭教師のバイトのために週に2往復、その京阪特急に乗っていた。その京阪特急のテレビカーが導入されたのは1958年、そのときにデビューした1900系の車両がこの秋で引退するというニュースを聞いて、オレはあのころのことをなつかしく思い出したのである。週に2回、オレは大学の授業を終えると急いでバスで京阪三条に出て京阪特急に乗り、夕方6時すぎには一軒目の家庭教師先へ、そして8時半頃には二軒目の家庭教師先へとはしごし、夜遅くに実家に帰って泊まって翌朝は卸売市場に向かうために早起きする父のトラックに駅まで乗せてもらって、淀屋橋駅を朝6:40に出る始発の特急で京都に戻っていたのである。京都に戻る朝はいつも特急の中で熟睡してていたが、夕方に大阪に向かうときはいつも車窓の景色を飽きるほど眺めていた。そして車内のテレビを見ていることもあった。なぜかNHKばかりついているそのテレビで「おかあさんといっしょ」とかを観た記憶がある。なぜかそのテレビはNHKばかり放送していた。それで幼児番組がかかっていたりしたのだろう。
特急の座席はクロスシートだったので、オレは隣の空席に京阪七条から京都女子大の女の子が乗ってくることをいつも期待したのだが、残念ながら横にはオッサンが座ることが多かった。もっとも女子大生もオレみたいなうさんくさい兄ちゃんよりも同性の隣に座るのが自然だっただろう。
当時の京阪特急は七条から大阪環状線との乗り換えの京橋まで約35分間をノンストップで走った。JR(まだ国鉄だったかな)の新快速の方が所用時間は短かったはずだが、運賃は京阪の方がはるかに安く、また阪急は京阪と同じ料金だった関係で京都大阪間は私鉄を利用する人が今よりもずっと多かったと思う。しかも京阪も阪急も特急だからといって別に料金をとられることもなかった。運賃だけで乗れて、テレビもついていて乗り心地もいい京阪特急をオレはこよなく愛していたのである。通学定期の割引率は高く、一ヶ月定期は京都大阪間を月に5往復する運賃分くらいだったので、オレは週に2往復しかしなかったにも関わらず京阪だけは通学定期を持っていた。京阪以外の区間はすべて回数券を使用していたのである。
この京阪特急の特徴だが、特急の車両がホームに入線すると、まず乗車位置と少しずれたところにいったん停車して客を降ろすのである。そのときにオレはまだ乗らずにホームの3つ並んだ丸印の乗車位置のところで待つ。しばらくすると車両がいったん降車用に開いたドアを閉じて、静かに数メートル移動して乗車待ちの人が並んでいる丸印の真ん前にドアが来る。その移動の時に転換型クロスシートが一斉に移動して進行方向向きになる。背もたれが動いて向きが一斉に変わるのがなんだかすごいことのように思えたものである。人間が手作業でいちいち座席を回して向きを変えているJRの車両なんかがものすごく原始的で時代遅れのように思えて、オレは京阪のその自動方向転換型シートを勝手に誇りに思っていたのである。
まだ自分のクルマを手に入れる前、オレにとって京阪特急は女性とデートする時の必須アイテムだった。そのクロスシートで並んで座って話をする時間にオレはいつも勝負を掛けたのである。淀屋橋で待ち合わせして、京阪特急で京都に行く。あるいは京阪三条で待ち合わせして大阪に行くというのがオレにとってデートの王道だったのだ。京阪特急にはオレの青春の思い出がいっぱい詰まっているのである。そして、そのころのオレが一番よく乗っていたのが、初代テレビカーとして走っていた1900系の車両のはずである。
オレが大学を卒業してから25年経った。三条までだった京阪電車は出町柳まで延長され、京都大学に通うにはさらに便利になった。もしも出町柳までの開業がオレの大学入学よりも前なら、もしかしたらオレは京都で下宿生活を送らなかったかも知れないし、そうなるとオレの人生もずいぶん変わっていたかも知れない。あの頃、オレは大学からバスで東山三条まで移動して、そこから京津線の路面電車に乗ることもあれば、三条京阪まで約500mを走ることもあった。三条京阪から出る特急の発車時間は頭に入っていたので、それに合わせてのんびり歩くこともあれば、必死でダッシュすることもあった。1900系車両引退の記事を読んで、そのころのことを思い出してとてもなつかしくなったのである。
京都市バスの車両はいつのまにかみんな低床式になっていたし、京阪三条の駅は地下駅になって全く形を変えた。駅前にあったサパークラブ、ベラミはもう影も形もない。そこで山口組の田岡組長が鳴海清に撃たれた事件は、確かオレが共通一次試験の受験勉強をしていた夏だったなあと思う。過去の記憶につながるものであっても文化財の寺社以外はどんどん姿を変えていく。行きつけだった喫茶店もどんどん消える。荒神口の「しあんくれーる」も木屋町四条の「みゅーず」も今はなくなった。かろうじて「フランソワ」や「進々堂」「RINGO」「わびすけ」は昔と変わらずそのままの姿で残っているようだが。久々に訪れた風景が昔とすっかり異なっていて、昔行きつけにしていた店がもう跡形もないのは寂しいことである。京都大学構内の風景も昔とすっかり変わってしまっているという。オレはそれをなんだかとても寂しく感じるのであった。
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