2007年08月20日(月) |
『出口のない海』〜人間魚雷回天に寄せて |
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8月19日夜、テレビの地上波で映画『出口のない海』が放映された。これは佐々部清監督の作品で、戦争末期に使われた日本軍の特攻兵器「回天」をテーマにしたものである。回天とは単純に言えば魚雷に人間が乗っかって、照準を微調整しながら突っ込むという特攻兵器である。魚雷はまっすぐ進むために設計されているから操縦性は極めて悪く、いくら訓練してもあんな乗り物で敵艦に体当たりするのはかなり困難だったように思える。Wikipedeaにはその操縦の困難さと戦果についてこのように記されている。この記述によれば訓練を受けた搭乗員は1375人だが、実際に搭乗して亡くなったのは106名とある。
回天の戦歴
その操縦も至難であり、発進後も必ずしも航走できるとは限らなかった。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、出撃にまでこぎ付けた者は少なく、さらに出撃しても回天の故障によって生還した者もあり、戦没者となったのは106人のみである。末期には回天を輸送する船舶も払底し、また首尾よく敵艦に向け発進できた「回天」特攻も戦果の定かでないものも少なくない。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になる。
回天の戦果は、撃沈4隻撃破5隻と日本軍が考えていた程には米軍の被害記録がなく、米軍が意図的に戦果を隠蔽していると考える旧軍人も多くいた。日本軍側が認識していた戦果と実際の戦果が乖離していたのには理由がある。日本軍側は潜水艦の聴音による爆発音の確認で戦果を認識していた。ところが、魚雷とは違い、方向転換のたびに潜望鏡を上げ、低速航行を行う必要がある回天は、敵に認識されやすく、砲撃で容易に爆沈された(この場合、回天の爆発音がするため、日本軍側は戦果と認識する)。また 回天は本来直進を基本とした魚雷が出自であるため、旋回半径が大きく、なおかつ回天側面と敵艦船とが衝突する事態を考慮していなかった。ところが実戦では、大回りの回天が小回りで回避運動を行う敵艦船を追跡した結果、敵艦船に回天の側面が衝突した場合が多かった。この場合、回天の信管は作動しない。このため、衝突してから数秒以上後に、搭乗員が内部から爆薬を起動させ爆発させたと思われる例が多かった。そういった場合、回天と敵艦船との距離は、既に離れているため、大した被害は与えられなかった。
映画の中でも操縦の困難さは繰り返し描かれていた。そして故障が多く、映画の中でも出撃したものの故障によって帰還せざるを得ない隊員が描かれる。そのあたりも史実に忠実に描かれた作品であると感じた。
主人公の並木少尉(市川海老蔵)が、わずか一泊二日の帰郷を許されて東京都中野の実家に帰ってくるが、その時に恋人にわざわざ逢いに行こうとしない。好きだったら会いにいくべきなのか、その恋愛は成就しないとわかっているから逢わない方がいいのか、自分だったらどうするだろうかと考えてしまった。きっとものすごく逢いたかったはずだ。しかし逢ってしまえば特攻に命を捧げる決意が揺らいでしまうかも知れない。生きたいという気持ちが強くなるかも知れない。いや、人は皆生きたいのだ。この世に死にたい人などいないとオレは思っている。みんなよりよく生きたいと願っているのになぜ死ななければならないのか。
「自分たちと戦ってるアメリカ兵たちにも家族があって、その帰りを待つ人がいる」のである。殺すとは他人のそうした幸福を奪うことでもある。しかし戦場では敵を一人でも多く殺すことが目標とされる。
何度か主人公は自分たちが戦ってる戦争が負け戦であることを口にするし、戦争が終わった後のことを語る。だったら戦争が終わるまで何とか生き延びればいいじゃないとオレは単純に思ってしまうのだが、争うように若者は出撃を志願し、そして死んで行く。彼らは自分の死にどんな意味を見いだしていたのだろう。これも先日地上波で放送されたばかりの映画、「君を忘れない」の中では「自分たちが犠牲になることで、このような戦争を二度と繰り返さずに平和な時代が来ることを願っている」と語る場面がある。
受けた教育も違うし育った時代も環境も違うし、その上かなりの卑怯者で非国民であるオレには彼らの心情に近づくことは困難だ。ただ誰もが自分の死を決して犬死になどではなく、その死がきっと未来の日本のために役立つと信じて、自分が犠牲になることで故郷の街や村、山河が守られると信じてその命を捧げたのだとオレは思うのだ。何と崇高で、そして痛ましいことだろうか。本当なら生きのびて戦後の日本の復興のために働いて欲しかった多くの素晴らしい若者はそうして命を失い、民間人を見捨てて真っ先に逃げ出した関東軍の将校や、終戦まで軍需物資を隠匿してそれを横流しして大儲けたクソ野郎ども、部下を特攻させて自分は生き延びた上官などが戦後の日本で我が物顔にのさばっていったのだ。なんで今の世の中にはこんなに理不尽なことがあるんだろうと思うときに、その理不尽な世の中を作ったのはまさにこのクソ野郎どもなんだからと思ってしまう。
主人公の並木少尉はかつての甲子園の優勝投手であり明治大学の野球部出身という設定になっていたが、甲子園を湧かせた投手で昭和14年の第25回大会で準決勝・決勝と連続でノーヒットノーランを達成した海草中の嶋清一投手を連想させる。嶋投手は学徒動員で出征後24歳の時にベトナム沖でアメリカの潜水艦に攻撃されてて戦死している。野球が出来るのも戦争のない平和な時代だからだ。例えばテロの止まないイラクで大規模なスポーツイベントなんかを実施したらたちまちテロの標的にされてしまう。それがあの国がまだ「交戦中」であることを意味している。
「回天」には脱出装置はない。ハッチは外側から固く閉じられる。一度入れば生還は許されない棺のようなものである。その窮屈な空間の中で、最後の瞬間に彼らはいったい何を思ったのだろうか。彼らが生還しなかった以上それを知る術はない。ただ彼らはそのような悲劇の再生産など望まなかっただろうし、自分たちが犠牲になることでよりよい未来が到来するものだと信じてその一命を捧げたのだとオレは信じたい。今この時代をよりよい社会にすることこそが、今を生きる自分たちに与えられた使命であり、そのためにこそ自分は努力をすべきなのだと感じるのだ。人生の出口を「戦場で死ぬ」という形しか選べなかったあの時代を二度と繰り返さないために我々は何を成すべきなのか。常にその答をオレは考えていたい。
関連図書(文字にカーソルを合わせると説明が出ます。)
人間魚雷回天―命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実
ああ回天特攻隊―かえらざる青春の記録 (光人社NF文庫)
人間魚雷「回天」 一特攻隊員の肖像
回天菊水隊の4人―海軍中尉仁科関夫の生涯
『ああ硫黄島』『人間魚雷回天』 (戦争と平和を考えるコミックス)
わだつみのこえ消えることなく―回天特攻隊員の手記
回天特攻学徒隊員の記録―止むにやまれず破った五十年の沈黙
回天発進―わが出発は遂に訪れず
海底の沈黙―「回天」発進セシヤ
「回天」その青春群像―特攻潜航艇の男たち
海竜と回天
特攻回天戦―回天特攻隊隊長の回想
人間魚雷回天
人間魚雷・回天と若人たち (1960年)
人間魚雷「回天」―鎮魂す特攻時代
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