2007年02月25日(日) |
きみは折田先生を知ってるか? |
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折田彦市先生は偉大な人物である。1849年1月27日に薩摩でお生まれになった折田先生は1869年に岩倉具視の御附役に命じられて、米国留学した岩倉の二子に従って渡米しニュージャージー大学に入学。1876年6月に大学を卒業し、帰国してからは教育者として幅広く活躍された。1880年から1910年までの約30年間に渡って第三高等学校(今の京都大学の前身)の初代校長として自由な学風を築くことに尽力されたのである。31歳で校長に就任したということにも驚くが、当時の日本はそうした若い世代が動かしていたのである。なんともうらやましいことである。その偉大な人物を顕彰するために当然のことながらかつての京都大学教養部(現総合人間学部)A号館前にはその折田先生の胸像が鎮座していたのである。
しかし、京大の学生たちはその偉大な先生の像に対して、こともあろうに落書きなどのイタズラを行った。京大にはオレのような勉学に励むまじめな学生だけではなく、マージャンやパチンコにうつつを抜かしたり、女のアパートを転々とするヒモのようなうらやましい生活をしていたり、全く単位をとらずに体育実技の授業にだけ出ていたりという猛者たちもいたのである。おそらくはそういうガラの悪い連中だろうと思うのだが、1986年頃からスプレーで顔を赤く塗ったり青く塗ったりというイタズラがおきるようになったのである。
京都大学の一つの象徴でもある尊いお方の像に対してそのような悪質なイタズラをする連中をオレは断じて許せない。そのイタズラはだんだんエスカレートして、ついには単なる着色ではなく、いろんなパーツを上から取り付けたり巨大な被せモノをしたりしてどんどん過激になっていったのである。もちろん大学当局もその異常な事態を放置することはなく、イタズラで取り付けられたものはすぐに撤去された。そうしていたちごっこを繰り返したあげくについに折田先生像は1997年3月に撤去されたのである。この時期にどんな被せモノが存在したかは、折田先生を讃える会というサイトで詳しく掲載されている。構内整備を機に撤去された折田先生像は大学の施設内に保管されることとなった。
しかし、ここから折田先生像へのイタズラは新たな展開を見せることとなる。もはやイタズラされる像が存在しなくなった中で、なんと像も台座もすべてが新たに作成されて設置されるようになったのだ。記録の伝えるところによれば、『北斗の拳』のラオウ、力石徹、勇者王ガオガイガー、快傑ズバット、風の谷のナウシカなどを模したものが製作されたという。丹念に作成されたそれらは大学構内に堂々と設置され、一定期間多くの学生を楽しませた後にいつのまにか姿を消していた。いったい誰が制作者なのか、それは謎のままであった。また大学当局はすぐに撤去するなんて無粋なことをせず、その奇妙なオブジェを存在させてくれたのである。自由な学風を守るということは、そうした学生のイタズラに対しても寛容な姿勢ということになるのだろうか。
像の台座脇にある看板には製作者からのメッセージが添えられ、そのユーモアに富んだ文面には思わず笑ってしまう。昨年の2月下旬、ちょうど京都大学の入学試験が行われる頃に、ちびまる子ちゃんのキャラクターである永沢くんが出現した。約一ヶ月後に撤去されるまで、永沢くんは京都大学キャンパスの吉田南構内正門付近に存在したのである。その時の看板にはこのように記されていたのだ。
「折田彦市先生は、清水市立入江小学校の児童として藤木へのイヤミに尽力し、京大にシュールな学風を築くために多大な功績を残した人です。どうか彼の家を燃やさないでください。さくらももこ」
受験生たちはおそらくこのオブジェを見て心を癒されたことと思われる。さくらももこさんまで自分たちの受験を応援してくれてるのだと勇気づけられたはずである。
さて、今年はいったいどんな素敵な「折田先生像」が登場するのだろうか。オレはそれが楽しみである。もしも京都をこの時期に訪れる方があれば、絶対に京都大学に立ち寄ってこの折田先生像を見学しよう。例年と同じように出現するならそいつは2月25日に登場するはずである。
2007年3月1日追記
親切な方から2007年の折田先生画像をいただきました。ありがとうございました。下のリンクをクリックすると画像を見ることができます。
2007年折田先生像1 折田先生像2 折田先生像3
参考文献
折田彦市先生
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