2006年08月16日(水) |
戦争論〜 なぜ殺人が合法なのか |
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以前に書いた戦争論はここにあります。「8月6日(原爆投下の日)に思うこと」
この世でもっとも大きな罪は、他者の生命を奪うことである。殺人を罪としない法体系を持つ国は世界のどこにも存在しない。しかし、たった一つ殺人が罰せられないケースが存在し、それが戦争に於ける殺人である。敵の兵士を一人でも多く殺すことが戦争の目的であり、そこでは殺人というのは称賛される行為とされる。多くの敵兵を殺した兵士は英雄として勲章をもらったりするのだ。オレが反戦思想を持つ最大の理由は、「殺人が合法である世界などまともじゃない」に尽きる。
ただ、殺してもよいのはあくまで敵の兵士、つまり戦闘員だけであり、非戦闘員を殺害することは戦争犯罪とされるはずである。ところが第二次大戦以降の戦争に於いては、一般市民の居住する都市への爆撃が戦闘行為の中に含まれるようになってしまい、その行為自体は非難はされても戦争犯罪として訴追をうけることはなくなった。イラク戦争でもユーゴ内戦でも、爆撃によって多くの一般市民の犠牲者が出たが、その爆撃を行った兵士が市民の犠牲に対して責任を追及されることはなかった。
なぜ一般市民を無差別に殺してもいいのか。太平洋戦争の時に日本を空襲して多くの市民を虐殺した米軍兵士の行為を戦争に於ける「普通の行為」と認定して戦争犯罪として裁かなかった以上、それ以降の同様の行為はすべて戦争犯罪ではなくなったのである。オレはそのように解釈している。戦勝国側の手による市民の虐殺は合法なのだ。それが罪になるのは戦争に負けてからのことである。戦勝国側にいればどんな残虐行為をしていてもOKなのである。
ここで最初の定義に戻るが、なぜ戦争に於ける殺人は合法なのか。その理由付けの一つとしてオレは「双方とも武装してること」を考えたい。相手も武器を持ってる以上、殺さなければ自分が殺される。だから相手を殺すのだと考えればひとつの説明になるような気がする。一種の正当防衛なのだ。戦争というのは双方が殺し合うフィールドであり、そこで敵の兵士を殺すということは自分にとっての生存条件という考え方だ。
もしも自分の生命が100%安全だったら、無理に相手を殺す必要もない。そういう観点に立てば、戦闘能力を失った敵兵や、最初から戦闘能力を持たない市民を殺すことはルール違反であり、戦闘能力を持ってるかどうかわからない民間人(いわゆるゲリラ兵士)を殺すのは自己の身を守るための行為ということになる。
南京事件とユダヤ人に対する民族虐殺を同列に論じようとしたのは、ナチスの犯した罪を薄めようとしたドイツ人ジャーナリストたちだったという説を聞いたことがあるが、兵士が軍服を脱ぎ捨てて市民に紛れ込んだために起きた南京城内での悲劇は戦闘継続時に於けるできごとであり、ユダヤ人を一方的に根絶やしにしようとしたナチスドイツの犯罪とは全く性格を異にする。ユダヤ人虐殺に比肩しうる戦争犯罪は原爆の投下や東京大空襲であって断じて南京事件ではないとオレは主張するのである。いや、ユダヤ人虐殺は戦争犯罪ですらない。一つの政府による特定民族への私刑である。ナチスドイツはあの戦争をしていなかったとしてもユダヤ人虐殺はしていただろう。
戦争以外の場所で人を殺すのは犯罪だ。太平洋戦争の時、サイパン島やレイテ島、沖縄は戦場だったかも知れないが、広島や長崎、東京は少なくとも戦場ではない。そこにいる無辜の一般市民を殺すことは犯罪である。ところが戦場では逆に殺さないことが恥とされてしまうのだ。
戦争の初期、昭和17年2月28日のスラバヤ沖海戦において、駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長は乗艦が撃沈されて海上を漂流していた422名の英国人兵士を救助した。自分たちの食料を分け与え、負傷した者には手当を行ったのである。これは世界の海戦史上きわめて希な出来事なのである。漂流している敵兵に対して容赦なく機銃掃射を浴びせるのが戦争なのである。しかし、工藤艦長の部下たちはこの行為を必ずしも快く思っていたわけではなく、捕虜たちをそのまま海に突き落としたいと思ってる者さえいたという。杉原千畝氏の行為が長く知られることがなかったように、工藤俊作艦長のこの行為も、「敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」という本で紹介されるまではほとんど知られていなかった。
なぜ語られなかったのか、それは「敵兵を殺すべきフィールドで殺さなかった変わり者」と思われたせいだとオレは思う。「武士の情け」ということばが日本語にはある。オレはそれこそが日本人が共通して持つ国民性であり価値観であり、一般市民まで皆殺しにする近代の戦争は西洋的であるような気がするのだ。東京裁判の欺瞞性は原爆投下や東京大空襲といった戦争犯罪に対して「戦勝国側の行為ならいかなる残虐行為も罰せられない」という前例を作ったことにあるとオレは思っている。その結果、市民を戦争の巻き添えで殺すことはこれ以後、罪でもなんでもなくなった。イラク戦争の誤爆で死傷した市民に対して米軍が一切の賠償を行っていないことはその証拠である。
真に反戦を叫ぶならば、戦争の本質を理解しないといけない。映画「二百三高地」には仲間が戦死したいことへの怒りから捕虜を射殺する場面がある。しかし、戦場ではじめて出会う初対面の敵兵士との間にはもともと憎悪などの感情は存在しないはずである。本来敵対関係にない相手を攻撃させるためには「鬼畜米英」などの標語を用いて憎悪を植え付けるという作為が必要だった。
終戦記念日の8月15日、小泉首相は公約通りに靖国神社参拝を行った。総理大臣の公人としての靖国神社参拝には賛否両論が存在し、あちこちでこの問題に関する議論が繰り広げられている。オレはそれが悪いとも正しいとも言わない。ただ、一私人であるオレはいつか靖国神社に参拝して、あの戦争で犠牲となった英霊たちの魂に深く感謝の祈りを捧げたいと思っている。戦後61年の繁栄は彼らの犠牲の上に築かれたのだと思わずにはいられないからである。彼らの多くは天皇陛下のためでも日本という国家のためにでもなく、ただ家族や恋人といった愛する人たちや美しい日本の山河を守りたかったから散華していったのではないか。次に生まれ変わるときには戦争のない時代に生まれることを願いながら。
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