2006年04月01日(土) |
作品をテストに使ってどこが悪い! |
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内容に不備な点があって誤解を招きましたので、修正加筆して再掲示しています。一度読まれた方も再度読んでくださるようお願い申し上げます。
児童文学者あまんきみこさんや翻訳家ら計23人がいずれも教材出版社6社を相手取り、「小学校の国語のテストに無断で作品を使われ、著作権を侵害された」として賠償を求めた訴訟で、東京地裁は3月31日、全員の主張を認め、6社に支払いを命じる判決を言い渡した。高部真規子裁判長は「出版社は許諾なく作品を使い、複製権を侵害した」と認定。あまんさんのケースでは約1000万円の賠償が命じられた。
説明が不十分なので補っておくと、ここでの訴えはたぶん「入試問題」「試験問題」として一度使われた作品が、問題集の中で二次使用されてることに関してだと思われる。オレは問題に切り取った断片など「作品」とは思っていないし、そうやって断片を読んでもらうことで、その作品に興味を持って新たな読者になってくれるのだと思ってるからこういう訴えに対しては「この、わからずや!」と思うだけだ。
テストの問題に勝手に使われたからと言って文句を言う作家たちがいるとしたらオレは言いたい。「おまえはなんてケツの穴の小さいヤツだ」と。オレは教師として国語の試験問題を作成する立場にある。試験問題を作るときにいちいち作家先生に、「すみません、使わせてもらってよろしいでしょうか?」などお伺いをたてたことは一度もない。村上春樹のファンなので使わせてもらいたいのだが、ほとんど外国で暮らすという村上春樹氏にどうやってコンタクトを取ればいいのか。メアドでも知っていれば別だが。
国語の試験問題に使うのは少なくともその文章が国語的に何ら問題なく、設問を作るに十分な表現の正確さを持っているからである。実際のところ使えない作家の方がはるかに多い。粗製濫造された若い作家の中には恐ろしい悪文を書くヤツや、国語的に正確でない言い回しを多用する日本語知らずも多いのである。使ってもらえるのは却って名誉なことなのである。オレは自分の書いている暴言コラムの著作権は放棄していないが、国語の試験問題に使ってもらえるのなら喜んで提供するだろう。そんな酔狂な国語教師はどこにもいないと思うが。
いくら格調高い文章を書いていても、川上宗薫や宇能鴻一郎、蘭光生などの官能小説家たちの場合は絶対に国語の試験に登場することはない。団鬼六も、SM小説というジャンルのためにまず出ることはない。これが古典文学なら源氏物語のようにきわめて猥褻で風紀を乱すような作品が教科書にも大学入試にも頻出してるわけでオレには全く納得がいかないのである。光源氏は自分の継母と関係を結んでしまうのである。想像するだけでも頭の中がぐちゃぐちゃになってしまうほどインパクトのあるストーリーなのである。なぜ古典ならOKで現代の小説ならダメなのか。
作品というのは読んでもらってナンボだ。その上でゼニを払うだけの価値があるかどうかを読者が決めるのである。ところが読んでから「はずれだったぜ、ゼニ返せ!」と言いたくなるようなものがかなり多いのである。あまり本を読まない中学生や高校生にとって、文学作品に触れる貴重な場が国語の授業であり、その教材として認知されると言うことはすなわち多くの人に無条件に作品を知ってもらえるという光栄なことなのだ。たとえば中学生のほとんどが「走れメロス」の著者が太宰治であることを知ってるが、これは中学生のほとんどの教科書に「走れメロス」が掲載されているからである。
もっともその「走れメロス」が果たして団鬼六の作品と比較して、教科書に掲載するのにふさわしいかと訊かれるとオレは肯定する自信がない。それは最後の場面で実はメロスが真っ裸であることが暴露されるからだ。群衆の前に真っ裸で立っている青年の姿を想像することは、多くの女子生徒にとって恥ずかしさの極致である。思わず顔を手で覆って指の間から見てしまう光景なのである。
教材出版社が作品を使用することで「著作権が侵害された」という訴えを起こした作家たちが得たモノは「使うな」という禁止命令ではなく、使ったことに対する代価だった。オレはそれを聞いて「なんだ、やっぱりゼニが欲しかったのか」とゲスの勘ぐりをしてしまうのである。学校のテストに無断に使うことは著作権法の規定の上でいちおう認められてるので「問題を秘密にする」という最低限のルールは守られてるし、個別の教師に対してゼニを要求するのは困難だからと、とれそうな相手である教材出版会社に対してゼニを要求したのである。あんたたち作家先生方が一部を除いてさほど儲かっていないように、教材出版会社もそんなにもうかっていないんだ。法外な金額の要求にオレはかなりあきれている。
訴えを起こした馬鹿作家たちはわかっていないと思うが、教材に使われてるということは宣伝してもらってるのと同じことである。宣伝してもらわなかったら知ってもらう機会がない。無料で宣伝してもらって読者を増やす助けをしてくれてるのに、その親切な出版社サマに対して、「ゼニを払え」と理不尽な要求をしてるのである。全くもって無礼な連中である。恩知らずとはこのことである。
1000万も賠償を分捕ることになったあまんきみこ氏がどんな作品を書いてるのか検索してみると一つ見つかった。読んだ後でオレは激しく脱力した。その理由は言わないが、あまりのすばらしさに感動して力が抜けたとだけ答えておこう。さすが1000万円をもぎとるだけのことはあるぜ。
こういう不毛の訴訟を起こされないようにするためにも、教科書やテストに使われたくない作家ははっきりと「使うな」と宣言し、逆に使ってもよいと思ってる人は「OK」と宣言してそこで線引きをすればいいじゃないか。そんな単純な方法で一発解決できるのに、この問題は文部科学省の怠慢で放置されていただけのことである。ただ、ろくに言葉も知らない駆け出しの作家が「使うな」と宣言して、現場の教師から「あんたの作品なんか使えないよ」と笑われることとほど滑稽なことはない。
それにしてもこの教材訴訟、最初に起こしたメンバーの中にはあの谷川俊太郎氏が入っていたんだなあ。かなり複雑な気分だったぜ。オレは高校生の時、教科書に載っていた谷川氏の「かなしみ」や「二十億光年の孤独」そして先生がプリントにして配ってくれた「男の子のマーチ」を読んでかなり気に入って、わざわざ文庫本で詩集を買ったくらいだ。教科書で知ってから本を買いたくなった・・・そんな人間もいたことを忘れないでくれ。訴訟の話を聞いたオレは、残念ながら手元にあった谷川氏の本を全部処分した。「この守銭奴め」という気持ちからだった。ファンだったからこそその行為は許せなかったのだ。その詩の魅力を生徒に語った教師だったからこそオレは憤慨したのだ。
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