2008年03月18日(火) しんしん。

心が麻痺ってないかを確認する。
そして、俺がここまでどうやって生きてきたかを。

今までの自分の浅はかさや愚かさに
うわっはーはずかしい!って思ったりもする。
でも、そう思えなかったら心配ってのもある。
気づけてるってことは、悪いことじゃない。

多様性。いろんな人がいる。クレヨン。

否定。悪口。陰口。嫌味。

何故こうも醜い感情が浮かぶんだろうな。
素晴らしいことはなかなか浮かばないのに。

俺は否定することで生きてきたんだな。
誰かを否定して、自分を肯定していたのかな。

誰かを否定することで、自分の生き方が間違っていないと、
そう、肯定したかったのかな。

でもなんか、最近、否定しそうになると、

「いやでも、それも一つの生き方と言えるかも。」

くらいに思えるようになった。
って、そんなの一般の人はとうの昔に分かってるやろ?
思うやろうし。
俺はいまだに出来ていない。コレは致命的だ。


マイミクにMASAって後輩がいる。
コイツは基本的に低姿勢なヤツだ。誰に対しても。

僕に対しても、1個先輩っちゅうことで、
丁寧なヤツだと思う。

だけど、いつもは「そうかもしれないですね」というヤツが、
絶対に譲らないことがあった。
それは、「人を見捨ててはいけない」ということだった。

実際に、彼自身見捨てると言う言葉を「諦める」に置き換えたり、
感情的になり、そうしてしまった友達や仲間もいるだろう。

しかし、彼のすごいところは
それを言葉にすることを許さないことだった。

「いや、それは・・・」

僕は学生時代、半分おもしろがって、
低姿勢ながらも僕に反論する姿を楽しんでいた。
だけど、俺はその彼の考えを否定できなかった。
むしろ尊敬さえしていた。
間違ってはいないと、そう思ったからだ。
僕はそうは思えない。そして、それが理想だとは思った。
俺もこの考え全てを受け入れることはできないかもしれないが、
コイツから学ぶことはあるなぁと、思った。


考えるに、僕は、頭ごなしに自分以外を否定しているのではなく、
否定することにも何か根拠のようなものがあるように思う。

根拠は、僕の人生経験であったり、倫理・道徳観が
それなのかもしれない。

否定は、自分の考えの中から、ソレは間違っていると判断したものだ。


人を否定して生きることも多様性で、
人を肯定することも多様性。

ならば、「正しいこと」ってのは何なんだ。
それは、誰が決めるんだ?

俺だろ。いや、社会一般の正しさは知らん。
少なくとも俺が生きていくうえで「正しいこと」を判断するのは
俺だろう。

なら「多様性を認める」ってのはどういうことだ。
それは妥協にもなりかねんだろ。

俺が正しいと思えることをしたらいいってことは分かる。
そして、俺が正しいことが他人にとって正しいかどうかは分からない。
だから、決め付けちゃいけない。完全なる否定はいけないんだ。
だって、それぞれが「正しい」と思えることを持っているのだから。
自分の正しさも認めてもらいたいなら、相手の正しさも認めなきゃ。

んー・・・「言い方」か。表現の仕方ってことか?

同じ意味でも「もってこい」と「持ってきてください」は
印象が当然違うから、やっぱり言い方なんかね。

「んー・・・」

で、ずーーーと話が止まって考え続ける人っているでしょ。
あれが何でなんかなぁと思ってたけど。
アレはもしかしたらこういうことを考えていたのかな。

俺、あんまり考えていないな。うん。


ちょっと今度から意見人に言う時、
もうちょっとコレまで以上に考えて、モノ申そう。

やっぱ俺もそろそろ色々かわらなあかんわ。


 past    will


sk6 [手紙] [Ai to U]

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