お風呂に浸かってるとき、わたしはいつも物思いにふけります。 首から下はあったかいお湯に、上は開けっ放しの窓からはいる二月の冷たい風にさらしながら、時折通る車の音を聞きながら。
時にはしょーもないことだったり、時にはなかなか楽しいことだったり。
今日は、ガラにもなくちょっとマジメなこと考えてました。 っつうか、考えるだけの理由があった。
ある音楽家が、 「僕はいままで色々な人に夢をもらってきた。 だから今度は、僕たちが夢を与える側にならなければならない。」 と言っていた。
今日、私は物心ついて二度目の不幸というモノにぶちあたった。 「死」というものは、誰にでもなによりも平等なものであり、不平等なものであると私は思う。 うまく表現できないけれど、誰でもどんな生き方をしている人でも、死は必ず訪れるけれどそれはいつだって突然で。 前回はそれを目の当たりにしました。 恐らく、本人も予期していなかったのではないだろうか、ということが私は悲しい。 どんなに直前が苦しくても、誰かに側についていて欲しいと思う。 のは私だけかもしれないけれど。
もう一度、会っておきたかったなと思う。 最後にあったのは、多分まだ小学校にあがる前。 話した内容だとかは残念ながらほとんど覚えていないのだけど、 その時確か兄と共に彼の大切な、たくさんのコレクションの数々をみせてもらったことを覚えている。 ひとつひとつ、それはどのようなものでどのように使うんだ、とか、 とてもとても楽しそうに嬉しそうに話してくれたことを覚えている。
せめて、私の受験が終わるまで生きていて欲しかった、と思うのは私のわがままだ。 でも、あれから十年たって、あのときの私はこんなに小さかったけれど、ここまで大きくなったよ、とか、 あのとき見せてもらった数々の品は今はどうなっているのか、とか、 たくさん色々話をしたかったです。
私は今まで出会ってきた人、本、音楽、ゲームなど様々なモノ全てになにかを余すところなくもらってきたと思う。 ちょっとした心遣いとか、言葉とか感動とか、時には嫌悪とかだったりもするけれど、どれもそれも今の私を形成するにあたって欠くことの出来ない何かを与えられてきた。 だから、与えられたからには私も誰かに与え返さなければならない。 そんな人になりたいな、と思う。 嫌悪を与えることだけは、ちょっとでも避けたいけれど・・・。 夢でも希望でも、その人にとってプラスとなるような何かを生み出し、与えることが出来るような人になるにはどうしたらいいんだろう、とか。
今日は、そんなことをつらつら考えていました。
無茶苦茶脈絡のない文章だけど。 何かに、形にして残しておきたかったから、ここに載せました。
こういうことを一度でも考えたんだ、ということは、 忘れてはいけないと、私は思っています。
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